2.



潮風が頬をなぶる。譲は未だ、水平線の向こうから目が離せなかった。
「お前は向こうに帰るんだろう。一生会えなくなる。本当にこれで良かったのかよ」
隣の悪友は、表情の読めない声色で言う。いいんだ、ときっぱり答えると、彼は小さくため息をついた。
「バッカじゃねえの。信じらんねぇ」
 こういう暴言は、彼なりの思いやりなのだ。譲は笑って受け流した。
「譲殿、私は語るべき言葉を持たないが」もう一人の友人が、静かな声で言った。「一曲吹かせてもらえないだろうか」
 そう言って彼は、手につかんだ小枝のようなそれを、そっと口にあてがう。高く済んだ旋律が耳の奥をくすぐって、譲はこらえるように目を閉じた。暖かな海風が吹き、濡れた頬を冷やす。
「泣いてんじゃねーよ、ばーか」
「それは、自分の顔を見てから言うことだな。ヒノエ」
 たぶん、皆同じことを考えていたと思う。敦盛の笛の音を聞きながら、いつまでも三人で、海の向こうを見つめていた。

「目が覚めた?」
 起きぬけにかけられた声で、譲は弾かれたように身を起こした。肌をうっすらとした汗が覆っている。べとついたその感触が潮風のそれを思い起こさせる。ひどく嫌な感じがして、譲はカッターの袖でひたいを拭った。
「あの、今何時ですか」
 保険医は視線を時計に遣った。「もう放課後よ。声をかけても起きないくらいぐっすり眠っていたようだから、起こさなかったけど、気分はどう?」
「すっきりしました」ややぼやけた目を擦り、眼鏡をかける。瞬きすると、やや視界がクリアになった気がした。「あの、じゃあ、俺は帰ります。お世話になりました」 
「そう。有川君はしっかり者だとは聞いてるけど、あんまり無理はしないでね」
 そう言って保険医はこちらに手を振る。白く細い手が、左右にひらひらと揺れる。水平線に消えるまで、いつまでも未練たらしく自分はじっとその手の動きを追い続けた。
(バイバイ、譲くん)
 その手には、どうしても振り返せなかった。
 外はまだ、しとしとと雨が振り続けていた。冬の雨というのは、どうしてこうまとわりつくようなのか。廊下の窓からのぞき見た外の風景には、色とりどりの傘がちらほら見える。この雨だ、学内に残っている生徒は余り多くないだろう。譲は2年生の教室に足を向けた。確かめるべきだ、と思った。
 彼女と兄は同じクラスだった。校内で出会うことは滅多に無かったが、いやに目立つ兄のせいで、聞く話には事欠かなかった。2年の教室がずらりと並ぶ廊下を眺め、譲は小さく深呼吸した。いずれにせよ分かることだ。
 その教室の前に立ち、引き戸に手をかけた。中からは声も、物音もしない。一気に引くと、がらりと重く湿った音がして、誰もいない教室の中が目に入った。左端の一番後ろが兄、その前が彼女。譲は震える足で、かつて彼らが居た場所に近づいた。
「あれ、有川じゃないか」
 背後からの声で、譲は思わず体を硬直させた。
「どうしたんだ、こんな所で。誰かに用事?」
 部活の先輩だった。驚いたように立ち尽くす自分を不審そうに見つめる彼に、譲は少し慌てて答えた。「まあ、そんなところです」
「見ての通り、もう誰もいないぜ。約束でもしてたのか」
「いえ、特には」
「なら、今度にしたほうがいいぞ」
そう言って彼は、左端の、一番後ろの席に近づく。譲は思わず、彼の腕をつかもうとした。やめてくれ、と喉の奥から悲鳴が出そうになる。伸ばした手は、軽く空を切った。
「おれ、忘れ物しちゃってさ。ああ、あった」彼はそこから、教科書を取り出す。「おい。どうした、有川」
 いえ、と答えた自分の声は、使い古したレコードのように擦り切れて掠れていた。小さく息を飲む。そっと口を開く。「あの、このクラスに春日さんって居ますか」
「いや、知らないけど。何、気になる子でも居るのか」
「大丈夫です、ちょっとした勘違いでした」
 頭痛がぶり返す。譲はこめかみに手を当てて、頬を無理やり持ち上げた。
「あの、今日は気分が悪いので、部活は休みます。失礼しました」
 きょとんとした先輩を置いて、譲は教室をあとにした。
 足が細い棒にでもなったようだ。少しでも重心を崩したら倒れそうな、頼りないそれで歩くのが、やけに難しく感じる。
 ああ、帰る前に荷物取りに行かなくては。教室に友人が残っていたら、ノートを借りよう。今日は雨だけど、傘は持って来ていただろうか。日常に戻らなくちゃ。譲は自分にそう言い聞かせた。これが俺の世界なのだ。あれは悪い夢だった。こんな記憶いらない。――も、一思いに消してくれたら良かったのに。誰だったろう、この世界に戻して、そんなひどい仕打ちをしたのは。
 頭に靄がかかったようで、思い出せない。考えれば考えるほど、少しずつ何かがこぼれ落ちていくような心持ちがした。あまりの悔しさに、歯噛みをする。目の端からにじみ出る水を拭い、譲は早足で自分の教室まで帰った。




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2010/8/27