3.



 自分が何をどうやって家に帰ったかはわからない。気がついたときには、自分の布団にくるまって、少し湿気た枕に顔を押し付けていた。外はまだ雨が降っている。指一本分ほど開いたブラインドの隙間から灰色の空を覗きながら、ひどく惨めな気持ちで譲はため息をついた。いつの間にか、制服は脱いでハンガーにかけてある。あちらに行くまで習慣だった動作を当たり前にこなしている自分の体を、恨めしく思う。ちょっとくらい、忘れていることがあってもいいじゃないか。譲は恨み言のように呟いた。
 時計は夕飯時を指している。譲は体を起こした。腹が減っているように思った。
 兄の部屋だった場所にちらりと目をやる。そこには相変わらず扉があって、譲は少し安心した。あの扉の中身を確かめなければいけない。そう思いながらも、足はそちらに向かなかった。また後でいい、そんな言い訳をして譲は階段を降りた。
リビングは静まり返っていた。いつもなら聞こえるはずの、母親が食事を準備する音、テレビのけたたましい声、そのどれもが聞こえてこない。冷たい石みたいに静まり返ったリビングをぼんやり見つめて、譲は背筋がぞっと冷たくなるのを感じた。
「母さん、父さん」譲は言った。「兄さん」
 兄さん、といった瞬間、自分の声が小さく震えるのがわかった。兄さん。
 どんなに嫉妬したり、羨望を向けたりしてもやはり将臣は自分の兄だったのだ。かけがえのない日常の一部分で、大切なたったひとりの兄。
 喉が渇いて、うめき声もうまく出せなかった。何か飲み物を、とテーブルに目を向ける。そこに乗った小さな白い紙を見て、追い打ちをかけられるような心地すらした。旅行に出かけてきます、譲へと、そこに書かれていない兄の名前をどうしても探したくて、譲は階段を駆け上がった。兄の部屋はどうなっている?冷たいドアノブを力任せに引くと、あふれんばかりの物が譲を圧倒した。兄の気配なんて、少しもなかった。そこはただの物置だった。兄の姿なんて、もうどこにもない。
こんなのはひどい、と譲は思った。こんなのはひどい。こんな、毟り取るようなまねはひどい。一番ひどい失恋の仕方だ、一番ひどい友だちとの別れ方だ、一番ひどい家族との別離だ。冷たい雫が頬に滴る。たぶん、この涙が乾いたころには、なぜ何のために泣いていたのかもわからなくなるのだろう。怖い。嫌だ。ひどい。残酷だ。
ドアを閉じると、廊下には冷たさだけが残った。向こうの人たちは俺のことを忘れないでいてくれるだろうか。覚えていてくれたとして、俺だけそのことを知らないなんて、そんなのは酷い。俺は向こうで人を射た。友だちができた。弓を教わった。兄と初めてきちんと会話した。きちんと失恋できた。ぜんぶ忘れたとして、俺は俺で居られるんだろうか。次目が覚めたとき、俺は何を考えているんだろう。
 部屋に戻ると、譲は再び枕に顔を突っ伏した。ひどく疲れていた。ひたすらに眠りたかった。忘れなくてはいけないのだ。覚えている限り、俺は俺の世界に戻れないから。
「さよなら、譲くん」
 彼女は言った。さよなら、と譲は返す。じゃあな、と兄は言う。じゃあ、と譲は手を振る。
(さよなら)
 別離の言葉は宙ぶらりんになって、霞んで消えていった。



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2011/3/18