*将臣ED後の譲







1.



「おい譲、何やってんだ。急がないと遅れるぞ」
「ああ」
 友人の声に促されて、譲は急ぎ足で教室に向った。冬の、冷たい雨の匂いがする。外の湿気で少し重い学生服、きゅっと音を立てるリノリウムの張られた廊下、そのどれもが異世界に行く前と一切同じで、譲は妙な倦怠感を感じた。学校の平和な喧騒も懐かしいはずなのに、やけに、疲れた。
(譲の世界では、神子も将臣も居なかったことになる)
白龍はその優しげな面立ちを顰めて、厳かにそう言った。
(譲の世界には、譲の世界の流れがある。それを乱してはならない。だから、神子と将臣は居なかったことにされる。譲も、いつか二人のことを忘れる)
 それでも、俺は帰るよ。向こうが俺の世界だし、父さんも、母さんも待ってると思う。向こうに、俺のやるべきことはあるんだ。
そうはっきりと答えると、白龍も、他の仲間たちも、少し寂しそうに、けれども笑顔で送り出してくれた。
 あのときは、なんとかなると思っていたのだ。忘れるのは悲しいし辛いけれども、やっていけると。しかし、いざ元の世界に戻ってみると、それがやけに怖い。日常はあまりに自分に馴染んでいて、あの世界の記憶も感触も何もかもが薄れていくように感じて、恐ろしい。望美や将臣が居たクラスをたずねてみようかとも思ったが、やめた。家に帰れば否応がなしにわかるのだと考えると、どうしても足が向かなかった。
 久しぶりの授業は、さっぱり身が入らなかった。あの世界での数カ月が無かったように、公式も単語もすぐに浮かんでくる。この世界での流れがゆるゆると己の記憶を押し流していくのをはっきりと感じて、譲は耳をふさぎたくなった。絶間なく聞こえる教師の言葉が、酷く耳触りでしょうがない。シャーペンを持つ手が震える。譲は、白いノートの罫線を薄くなぞった。ゆがんだ薄い線が、起立よく並んだそれらを乱した。
「有川」
 周囲の音がひどく遠く感じる。雨の湿気が重い。シャーペンの硬質な感覚が、指に痛い。
「有川、どうした。問5だ」
 がた、と自分の椅子が大きな音を立てるのを聞いた。しんと教室が静まり返っている。頬に僅かに、血が上るのが分かった。
「有川、どうした。気分が悪いのか」
いえ、と言いかけて、譲はすこし躊躇した。このままここにいても、少しも集中できないに違いない。「すみません、保健室に行ってきてもいいでしょうか」
「大丈夫か。付き添いは要るか」
「いえ、一人で大丈夫です」
 席を立ち、教室を出る。背後でクラスメイトがややざわつくのを聞きながら、譲は早足で保健室へ向かった。今日はこのまま帰った方がいいかもしれない。しかし、家に帰って兄の部屋の無いのを、兄や幼なじみの不在を確認するのは恐ろしい。いっそのこと、なにも考えずこのまま忘れていったほうがいいのかもしれない。ああ、でも、と譲は拳を握った。
(譲、父さんと母さんをよろしくな)
そう言って永遠に離れていった兄の手を思い出し、己の手足が少し冷たくなるのを感じた。さよならという幼馴染の声、小さくなっていく二人を載せた船、目が痛くなるほどまぶしい晴れた日、潮風の濃い風が頬を撫でる。元気で、さよなら、月次な言葉をつぶやいて、譲は彼らを見送った。譲の中で、何かが死んでしまうのがわかった。たぶんそれは幼なじみへの失恋であり、兄との決別だった。目の前にはいつも兄の背があって、こっちへと促す望美の声があって、そんな風景は永遠に見ることはできない。このさみしさと喪失を忘れてしまうと、自分が自分でなくなってしまうんじゃないだろうか。手放すのは怖い、しかし、ずっと覚えていて、その記憶に押しつぶされてしまうのも怖い。まるで爆弾を抱えてるみたいだ、と譲は思う。
 
無人の廊下は、確かに人の気配を傍に湛えているのに、やけに寂しかった。学校はこんなにも無機質な、冷たい色が多かっただろうか。制服はこんなにも窮屈で動きづらかっただろうか。雨の音はこんなにも、ざあざあと嫌な音を立てていただろうか。湿気は、こんなにも厭らしく肌にまとわりつくものだっただろうか。
「失礼します」
 引き戸を開けると、甘い薬品の臭いが鼻をついた。温かい空気に触れると、やや心が落ち着いたような気がする。いらっしゃい、どうしたの。気分が悪くて、少し休みたいんですけど。じゃあ熱を測って、この紙に名前と、学年と、体温を書いてね。
 制服の上着を脱ぎ、脇に体温計を差し込む。部屋の隅で燃えるストーブが、じりじりと空気を焼く音がする。保険医が飲んでいただろうコーヒーの淡い香りがして、譲は深呼吸し、目を軽く閉じた。
 火が小さく爆ぜる音がした。戦の前はいつも、こうして火の前で高ぶる気を抑えていた。少しでも己を失うと、自分が射るものの正体を忘れそうで怖かった。怨霊はかつての人間であり、敵兵は今生きている人間だ。人殺し、と己を罵ることはもう止めた。だが、毎夜悪夢を見る。自分が死ぬ夢、射た人間が倒れる姿、血、死体、気が狂いそうだと思った。それでもなんとか自分を保てていたのは、幼なじみが居たからこそだと思う。彼女を守る立場にいるというのが、どれほど気楽だったことか。でも、もう、彼女は居ない。
 甲高い電子音が響いて、譲は目を開けた。体温計の数値は、平熱を示していた。
「熱は無いみたいね。ほら、紙に書いて、ベッドで寝なさい。顔色が悪いわよ」
 はい、となおざりに答えて、譲は紙に書きつけた。上着を掴み、整えられたベッドに横たわる。薄い布団を体に乗せると、軽い睡魔が襲ってきた。
「カーテン、閉めるわよ。おやすみなさい」
 しゃっという音とともに、辺りは淡い薄暗さに包まれる。保険医の靴音と衣擦れの音が遠ざかっていく。譲は眼鏡を外し、枕元に置いた。目をつむると、そのまま夢の中へ引きずり込まれていった。




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2010/6/14