夕暮れになって家に戻ると、ばあちゃんが畑で胡瓜をもいでいた。ぼくはもぎたてのそれを一本もらい、服で拭ってぴかぴかにしてからかじった。一口かじって、興奮した気分のままばあちゃんに尋ねた。
「ねえ、ばあちゃん。どうやったら人はくじらになれるの?」
 ばあちゃんは少し首を傾げて、顔をしわくちゃにして笑った。
「くじらかい」ばあちゃんはぼくの頭を撫でた。「あれは、偉大な生き物だ。人がくじらになれるとしたら、それはきっと、ずっとずっと遠い未来のことになるだろうね」
 それだけ言うと、ばあちゃんは今日で何度目か知らない、向日葵の水あげを始めた。向日葵の周りの土だけが、湿りきって黒い。土が吸い切れなかった水が向日葵の根元に溢れて、まるで血溜まりのようになっていた。
 そんなに水をあげると、向日葵の根が腐っちゃうよ。
 ぼくはとたんに悲しくなって、口にじわりと塩味が沸くのを感じた。胡瓜をかじると、ちょうどいい塩梅でおいしかった。
 神様はちょっとヘンだ。ばあちゃんの言葉はとても尊いのに、どうしてこんなことを何度もさせるのだろう?
 母さんの「晩御飯よ」と言う声が聞こえて、ぼくはばあちゃんを連れて家に入った。

 くじらと出会ってから3日間、ぼくは灯台でくじらと過ごした。図鑑を持って行ってくじらの生態系について調べたり、一緒に海で泳いだりもした。宇宙人はいるかどうかについて論じたし、海が何でしょっぱいかなんてことも話した。くじらは本当に物知りで、ぼくの疑問にも色々な見解を持って答えてくれたし、彼の説明はわかりやすかった。
 事件が起こったのは三日目の夕方、ぼくがふと気になって、くじらに質問したことから始まる。
「ねえ、君はいつもどこに帰っているの?」
 ぼくの質問に、くじらは頑なにだんまりを決め込んでいた。ぼくはちょっとむっとして、ぼそぼそと呟いた。「だって、ぼく君のこと何にも知らないんだ」
「なら」くじらは、やっと口を緩ませて言った。「明日、僕の家に来るかい?」
 ぼくは少しびっくりした。くじらは不思議な奴で、どこか現実離れしたところがあるから、彼からそういう提案をするのは意外に思えたのだ。くじらの深刻な口調を不審に思ったけれども、ぼくはうなずいて、翌日くじらの家へお邪魔することになった。
 その日の晩は興奮して眠れず、まんじりとして過ごした。くじらはどこの、どんな家に住んでいるのだろう?くじらの両親も、彼のように賢くて変わった人たちなんだろうか?
 そんなことばかりずっと考えていた。
 翌朝、いつもよりずっと早く待ち合わせ場所の灯台へ出かけたぼくは、いつものようにそのてっぺんに座っているくじらを見つけた。くじらはすぐにぼくに気付き、敏捷な動作で瞬く間に地上に降りてきた。行こうか、とくじらは言って、泣いているのか笑っているのかわからないような笑みをして見せた。
「ねえ、君が嫌ならいいよ」ぼくはくじらを気遣って言った。くじらの様子があまりにもおかしく、途方に暮れているように見えたからだった。
「いや、これは義務だと思うんだ」くじらは断言した。「君には見せなくてはならない。これは義務だ。だって、僕らは親友だろう?」
 くじらの言葉は、いつも以上に確固とした響きをもっていた。ぼくはその言葉に安心して、同時にさらに彼への好奇心が強まるのを感じた。それなら、とぼくはくじらを急かし、彼の家へと向かった。
 くじらの家は、小高い丘の上にあった。家というよりかは別荘のようで、煉瓦造りのお洒落な、小ぢんまりとしたものだった。くじらが玄関のドアをノックすると、ドアはすぐに開いてきれいな女の人が出てきた。
「あら、×××(くじらの本名だ)。お友だちを連れてきたの?」
「うん、ママ」すこし戸惑いを含んで、くじらは答えた。彼女の前ではくじらは委縮して、いつもの彼の、堂々とした知性はどこにもないように思えた。くじらはぼくを紹介し終えると、ひどくゆっくりとした仕草で家の中へ入った。こっちだよ、とくじらは言い、家の奥へと消えていった。おじゃまします、とぼくは言って、くじらの後を追いかけた。家の中に入ると、外の明るさに慣れていたせいか、深海の中を歩いているかのように、あたりは真っ暗闇に見えた。
 いつもより小さく見えるくじらの背中を追いかけながら、ぼくはとてつもない違和感を覚えた。まるで喉に飴かなんかが詰まってしまったかのように思った。こいつは誰だろう、とぼくは思った。ぼくの目の前を歩くこいつは誰だ?
 くじらは、別荘の一番奥の部屋に入って行った。
 その部屋の空気は、濃くて重かった。埃っぽく、何年間も熟成された書物の放つあの臭気がぼくの鼻を刺した。ぼくは頭痛がして、思わずこめかみを押さえた。
「僕の父さんはね」とくじらは唐突に話しはじめた。「哲学者だったんだ。生まれたときからそういう宿命にあった人だった。父もまた、ねじれによってくじらになれずにいた犠牲者だった。父はそのねじれを正すため、旅に出た。恐ろしい試練が待ち受けている旅だ。父は幾度も苦難に出遭い、しかし持ち前のタフさでそれを乗り越えた。父は常に考えていた、その旅の先にあるねじれを正す何かの存在を。考えるという父の宿命は、往々にして孤独な旅を支えた。そういう幸運が重なって、父はようやくねじれを正す方法を見つけた。旅の終点だ。しかし、父が見つけたのは彼自身のねじれを正す方法のみだった。父はそのときにはもう僕のことを忘れていたから、それで充分満足して、父は象になった」
 くじらはまるで舞台の台本を暗証するかのように、話した。くじらの語る姿は異様で、恐ろしかった。ぼくが彼の家に来るのを嫌がっていた理由が、何となくわかったような気がした。とんでもないことをしでかしてしまった、とぼくは思った。
「父の願いは叶えられた。けれども、その代価は大きかった。母はそのせいで永遠に宇宙から遮断され、僕はくじらになるという宿命を負うことになった」くじらはそこで言葉を切り、俯いた。「僕はこの呪いから解放されるため、くじらにならなくてはならない」
 何かが間違っている、とぼくは思った。確かにくじらの中のなにかしらの部分が、修復不可能なほどにねじれていた。何か言わなくてはならない義務感に駆られ、僕は糊でくっつけたように貼りついた口を開いた。
「そんなの、だめだよ」ぼくは声を荒げた。「そんなの間違ってる」
 このままではきっと、くじらはだめになる。彼はひどく悩み、苦しみ、絶望していた。俯いた彼の姿には、一片の希望も無かった。彼と彼の母の住む家の中にはただ深い闇が広がっていて、僕は海の中にいるようだと思った。深くて、広くて、息ができなくなる。
「僕は償わなくてはならない」とくじらは言った。ぼくの声など聞こえていなかった。「さまよえるユダヤ人のように、この世の善を侮蔑した罪を、拭い去らなくてはならない」
 それきりくじらは何も言わなかった。石のようになって、埃の溜まった床の上にうずくまった。
 ぼくは逃げかえるようにその部屋を出た。これ以上この家にいたら、窒息して、溺れてしまうと思った。
 くじらの母親は、帰り際にクッキーをくれた。可愛らしいピンクの袋に包まれていた。ぼくはお礼を言って、家に帰った。

 次の日ぼくは熱を出した。くじらの母からもらった包みの中にはたくさんのこげたセミが入っており、嘔吐したのがきっかけだった。ちょうどその日から、ひどい雨が降り続くことになる。異常な酷暑が招いた、季節はずれの台風だった。
 熱で朦朧としていたぼくはあまり覚えていないが、被害は甚大だったらしい。土砂崩れや高波のせいで何人もの人が死に、何軒もの家が壊れ、行き場を失った人たちが溢れた。幸いばあちゃんの家は瓦の半分が無くなった以外は無事だった。
 そんな台風の中、ぼくは何度もくじらの夢を見た。あの古い、埃の舞う部屋の椅子にうずくまり、必死で考えるくじらの姿を見た。彼と彼の母の家の中には暗い水が充満していて、じっとしているくじらの青白い皮膚を覆っている。長い長い時間が経って、くじらはふと思いついたように立ち上がる。彼を覆う海を泳ぎきる、立派なくじらになる方法を見つけたのだった。

 台風が明けると共にぼくの熱は下がり、そしてぼくの夏休みは終わりに近づいていた。元気になった日の当日ぼくは、くじらの葬式に出席した。台風で、くじらは死んだとの話だった。
 その日のうちにあまりにたくさんの葬式が行われたので、人はかなりまばらだった。皆どこかうんざりした顔つきで読経を聞いていた。
 くじらは海に出たらしい。あの台風の中、海は大しけで、不意にやってきた大波にくじらは飲み込まれたのだ。かわいそうに、と母さんは言った。そんなときに海に行ったら死んでしまうって思わなかったのかしら。
 違う、とぼくは思った。それは確信だった。くじらは、くじらになる方法を見つけたのだ。何度も夢の中でみたあの映像のように、くじらは考えて、そして方法を見つけたのだ。そう知っていたから、ぼくは泣かなかった。くじらがくじらになったのなら、いつでも会える。しかし、彼とはもう親友ではいられない。くじらと人は相容れぬ存在なのだ。
 ぼくはこの場に居る皆に叫びたかった。くじらは死んでいません。くじらは海に帰ったんですよ。けれども、狂ったように泣き叫ぶくじらのお母さんの声が、ぼくのその叫びを打ち消すような気がした。彼女の悲しみの前では、ぼくの言葉など無力なのだ。くじらの言った通り、くじらの母は永久に宇宙から遮断されているからだ。
 くじらの葬式が終わってすぐに、ぼくは帰ることになった。ばあちゃんの世話はヘルパーのおばさんに頼むことになり、ぼくらは一まず用無しだ。ばあちゃんはぼくらが去るということを理解できていないようで。ひどくまごついていた。おたおたしつつ、ばあちゃんはぼくに言った。
「偉大なくじらはどうなったんだい?」
「海に帰ったんだ」とぼくは言った。ばあちゃんは納得したようで、ぼくらの乗った汽車を、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。遠ざかっていくばあちゃんの姿を、ぼくは慕わしく思った。また来年、ばあちゃんの家に行ってあげてもいいかな、とも思った。そして海辺に行き、くじらに百科事典をやろう。それはとても素晴らしいアイディアに思えた。
 そうしてぼくの夏休みは終わったのである。

今でもぼくはときどきくじらのことを思い出す。そして、くじらのことを、世界のことを思う。くじらはゆうゆうとその尾を揺らし、自分の好きなところに泳いでいくことができる。いつか語ったように、彼は世界中の青い海がある島を訪れている。ぼくはくじらをひどく羨ましく思うが、くじらはそんなぼくを嘲笑う。彼の笑い声は、ブリーチングとなって空に晴れやかに吹きあがる。
 その笑い声を見ながら、あの空と海の狭間に見える波しぶきは、ぼくの親友のくじらなんだよ、とぼくは自分の子どもに教える。
 ぼくの親友だったくじらなんだよ、と。
 



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2009/10/31

中二病で申し訳ない。黒歴史の解放って、案外すがすがしい。
もうこういう文章書けない気がするなあ。