くじらの話











子どものころ、ぼくはくじらに出会った。彼との出会いは、ぼくの考え方とか価値観とか、そういうものをすっかり変えてしまった。彼との出会いで、今のぼくの基礎は築かれた、と言っても過言ではない気がする。
くじらの顔や本当の名前、詳しいことはさっぱり思い出せないけれども、彼とした会話だけは不思議にはっきりと覚えている。それこそ、ぱっと目の前に浮かぶように、だ。
真っ白な灯台の下、薄くぼやけた水平線を見ながら、微かに聞こえる波の音を聞くともなく聞いていた。鼻をつく濃い潮のにおいを嗅ぎながら、たった四日間だったけれども色んな話をした。他愛も無い話も難しい話もごちゃ混ぜにして、ただ自分たちの思ったことを素直に喋っていた。そんな話が出来たのは、ぼくの今まで生きてきた内でも彼一人だけであり、これから先も彼一人だけだと思う。
そう、ぼくとくじらは親友だった。

ぼくがくじらに出会ったのは、とんでもなく暑い夏がやってきた年――ぼくが小学校最後の夏休みを迎えたころだった。ニュースは毎日『記録的な暑さ』だと報道していたし、セミは毎年よりもよけいにうるさく鳴き、ぼくの机の上に飾ってあったサボテンは干からびて枯れてしまった。元気なのは向日葵の花とぼくのばあちゃんくらいで、みんな、そのひどい暑さに飽き飽きしていた。
夏休みになると、ぼくと母さんは毎年ばあちゃんの家に泊まりに行っていた。ちょうどその年は、ばあちゃんが認知症になった年で(といっても体の方はずいぶんと元気だった)、ぼくと母さんはいつもより長く滞在することになっていたのだ。ばあちゃんの家は海辺の町にあって、縁側から、青い澄んだ海が見えたのを覚えている。眩しい、きらきら輝くきれいな海で、くじらはそこに住んでいた。もちろん、そのときあんまり気乗りしない気分でばあちゃんの家を訪れたぼくは、知りもしなかったのだけれども。
ばあちゃんの家は、古くて、いかにも座敷童の出そうな、そんな家だった。床は歩けばぎいぎいと音を立てたし、トイレはぽっとん便所で、しかもはなれにあった。あの独特の暗さ、強い臭いーーその時のぼくには死臭に思えたのだった。それに、ぬかみそ。ぼくはあれが一番嫌いだった。代々受け継がれてきているものらしく、ばあちゃんや、時たま母さんが夜かき混ぜているのを見ると、ぼくはとてつもない恐怖を覚えた。ぬかみそを混ぜるとき、ものすごい形相なのだ。体中にじっとりと汗をかいて、何度も何度もかき混ぜる。ぬかみその臭いと女の人の汗のにおいがない交ぜになって、そこに夜のあの重さが加わる。夜のトイレと夜のぬかみそ、ほんの子供だったぼくには、耐え難い恐怖だったのは言うまでもない。
ともかくその年、ぼくはまったく気乗りしない、けだるい気分でばあちゃん家にやってきたのだった。


 くじらに出会った日、ぼくはお気に入りの場所である灯台に散歩に行った。毎年ここに来ているのだけれども、誰か他の人が来ていたためしがなかった。いつも静かで、人気の無いひっそりとした場所だった。
灯台からの眺めがぼくは好きだった。遙か遠くまで見渡せるのがいい。出来るだけ遠くに、思いを馳せる。ぼくは、ここには無いもののことを考えるのが好きな子だった。斜めに傾いだエッフェル塔、傷だらけの手でコーヒーの実を摘む真黒い手、砂丘に沈む白い骨、遠い星に棲む宇宙人。灯台にはいつも何冊かの本を持っていき、そこで読書にふけって、夕方になると帰っていった。母さんは、ぼくの日焼け振りを見て、友達と遊んでいるせいだと思っていたが、実際はこのせいだったのだった。そこが、幼いころぼくの一番の遊び場だった。
その日、くじらは灯台のてっぺんに座っていた。ひとりでぽつんと、暑さなんて全く心の内に入っていなくて、ただ強い悲しみのみを漂わせた顔で座っていた。ぼくはそれを見て、酷く驚いたのを覚えている。だって、灯台のてっぺんはぼくだけの場所だったのだ。ぼくの聖域と言っても良かった。ぼくは、あの子ども特有の純粋な、激しい怒りそのままにてっぺんへ昇って行った。
ぼくがやっとこさ、それでも急いでそこへたどり着いたときも、くじらはその悲しげな顔を崩さず、遠くを見据えていた。ぼくのことなんてまるで見えていないかのように、遠くだけを一心に見つめていた。まるで『最後の晩餐』のイエス・キリストみたいな顔だと、ぼくは思った。あの悲哀に満ちた、それでいて何かを哀れむような顔。ぼくには、彼がとてつもない悲しみを抱えた人間であるように思えた。もちろん、ぼくの怒りはすっかり消えていて、とまどいに変わっていた。なぜ彼は哀しんでいるのか、それも、この美しい景色が見渡せる灯台のてっぺんで。
話しかけようか話しかけまいか迷ってうろうろしているうちに、くじらの方からぼくに気付いて、声をかけてきた。
「ねえ君」彼はこちらも向かずに言った。「どうやったら首を回さずに、ここからの景色を見渡せると思う?」
 あんまりとっぴな質問だったので、ぼくは何も言えずに、黙って固まったままだった。くじらはぼくを手招きした。
「こっちに来なよ」
 ぼくはくじらに勧められるまま、彼の隣に座った。なんだかよくわからなくて、混乱していた。こいつ、誰なんだろう。いきなり変なことを言うやつだ。
 灯台のてっぺんは平らで、所々鳥の糞の白い斑点がこびりついていた。その年の前はここにかもめがたくさん群がっていて、その名残だった。ぼくが座っていたコンクリートの地面はおそろしく熱くて、やけどしそうだった。背に負ったリュックがひどく重い。首筋から汗が伝い、シャツの中まで入り込んできて、ぼくはようやく自分がひどく汗をかいていることに気付いた。
「ここの眺めはいいね。できるだけ遠くが見られる」くじらはそう言ってほほ笑んだ。「ほら、あらゆる物が小さく、それでいてはっきりと見えるような気がする」
「ここはぼくの場所だぞ」ぼくはようやく、そう言えた。彼がいかにも自分の場所のように話すので、先ほど感じた怒りを思い出したのだった。
「それは、悪かった。けど、素敵な場所だ」
くじらがあんまり素直に、本当にすまなさそうに言ったので、ぼくの方が悪かったかのように思ってしまった。何か言おうと思ってくじらの方を見ると、彼はぼんやりと景色を見つめていた。ぼくのことなんて全く眼中に無いみたいだ。なんだか手持ち無沙汰になったような気がした。しょうがないので、ぼくはリュックを開け、手持ちの百科事典を開いた。
「僕も見ていい?」
 くじらは淡々とした声でそう聞いた。別にいいけど、とぼくは答え、くじらとの間に百科事典を置いた。学校の皆は、百科事典に興味を示したりしなかったからひどく驚いた。特に、ぼくが持っている百科事典は、説明が難しくて理解できないところが多かったから、わかったふりをして読んでいるのが見破られまいかとぼくはいくらか身構えた。くじらは、細い指で膨大なページの一つを開いた。白い指先が、小さな写真を指さす。真っ青な海が広がる島の写真だった。
「きれいだね。僕は、世界中のこういう場所を探検してみたい」
くじらは穏やかな口調で言った。彼の浮かべた頬笑みは、ぼくの好奇心のさきっぽを確かにぎゅっと捕らえた。ぼくは彼に、矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けた。
 名前は?どこに住んでいるの?本は好き?世界旅行に行くとしたら、どこに行きたい?
 彼は、くじらと名のった。もちろん地球の日本という国に住んでいて(くじらはそういう曖昧な言い方をした)、本が好きだ。紙のにおいは嗅いでいて落ち着く。世界旅行に行くなら、北極に行きたい。
「くじらが本名なのかい?」とぼくは尋ねた。「変わった名前だね」
「僕はくじらになりたいんだ」くじらは言った。「本当はくじらに生まれるべきだったんだけれども、どこかで何かがねじれてしまって、人間に生まれてしまった。だから、きっと本当の名前はくじらなんだと思う」
 くじらは大体そんなことを言って、おもむろに自分の手を太陽に透かした。指の隙間に張った薄い皮の部分と手の輪郭が赤く染まった。赤く脈打つ血潮が見えた気がした。「僕はいつか、海に還るんだ」
 
 



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2009/10/31