*3年目の6月、瑛とデイジー
*自慰ネタです。苦手な方は注意
























 あ、と口から小さく息が漏れた。手に包んだティッシュペーパーに、それが吐き出されるのを感じる。終わったあと残るのは罪悪感だと分かっているのに、どうして自分は何度も同じことをくり返してしまうのだろう。重みを増したその紙をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に向かって軽く投げる。それはきれいな放物線を描いてその横に落ちた。くそっと悪態をついて、瑛はむき出しのままだったそこをしまい、布団に横たわった。
 先程まで高ぶっていた体はすっかり冷めてしまっていた。少しだけ開けた窓の向こうから、濃いにおいの雨が入り込んでくる。梅雨なんてはやく終わればいいのに。熱をもった湿気がまだ下半身の辺りに漂っているように思えて、ひどく不快だ。
ぜんぶあいつが悪いのだ、と瑛は思う。あいつが悪い。なにもかもわかっていてとぼけているんじゃないか、俺が吐いているたくさんの嘘と同じように、あいつも嘘をついているんじゃないか。絶え間ない疑念がふつふつと沸き上がってくるのは、仕方のないことだった。自分がひねくれているのは分かっている、不必要なくらいに疑い深いということも。

「瑛くん、子どもみたい」
 彼女は思いついたようにそう言った。その目がいたずらっぽい光をたたえているのを見て、瑛はため息をついた。
「俺をからかおうったってムダだぞ。お前みたいなボンヤリに挑発されるもんか」
「そうやって言い返してくるのが子どもみたいなんだよ」
 くすくすと彼女は笑う。瑛はその笑い声が嫌いだった。女はそうやって笑う。
「笑うな、むかつく」
「ごめんね?」
「…許さない、こともなくもなくもない」
 どっちよ、と彼女は何も考えてないみたいな顔でにこにこしている。そして、何の前触れもなく体に触れてくるのだ。細い指が腕に、黒目がちな大きな瞳が瞳孔を射抜き、人差し指で髪をなでる。どうしてそんなふうに触れるのか、と問いただそうとしたことは何度もある。けれども、彼女はいつだって、何も考えていないというふうに小首をかしげてみせるのだ。ああ、そうだ、女はこうやってごまかす。そっちがそんなふうに女であることを必要以上に振りまくなら、こっちにだって考えがある。そうやって瑛は頭の中で彼女を引き倒す。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。指と指を絡め、手のひらの汗を彼女にすりつける。肺の中に溜めた重い息をその髪でひっそりと隠れた耳に吹きかける。彼女の体をあらわにする。唇を触れ合わせる。触れる、もみくちゃにする、抓る。彼女は何も言わない。何も考えていないみたいな目でこちらを見つめる。お前は俺に嘘をついてるのか。彼女は首を振る。どうやって証明できる?嘘をつくのは思ったより簡単なのに、俺が騙されてないって、どうやってわかるんだ?彼女は再び首を振る。嘘つき。瑛は彼女の足を開き、張り詰めた下肢を彼女に突き立てる。彼女の喉がそる。掠れた息が漏れた。
「痛いよ、瑛くん」
 はっと気づいて、瑛は強く握っていた彼女の手首を離した。白い肌が赤く腫れている。彼女の手首の皮膚がどれほど薄いか思い出して、先程までの空想への罪悪感と劣情がふっと頭をよぎった。まともに目が見れなかった。
「ごめん」そう言って、瑛は視線を落とす。「だって、お前、触るから」
「ダメだった?」
「――俺、先に帰るから」
 返事を待たずに背を向けたのは、膨らんだそこを見られたくなかったからだ。最低だ、と思った。最低だと思いながら、家に帰ってティッシュペーパーに鬱憤を吐き出した。
 雨が降り始めたのは、珊瑚礁に着いてすぐだった。あいつは振り出す前に家に帰れたかな、なんて無責任なことを考えながら、外の灰色の空を見つめる。雨は嫌いだ、海もくすんで見える。瑛はそっと目を閉じた。雨の音は一定の音量で鼓膜をやさしく震わせるので、眠りに落ちるのは容易だった。

 夢を見た。眼下には灰色にのたうつ海原があった。シュノーケルをつけ、海にもぐる。海は瑛の手足を絡めとり、海底へと引きずり込んだ。海の底にいるのは分かっている、あいつだ。あいつ、何がしたいんだ。瑛は憤りながら、彼女を睨もうとそちらへ目を向ける。そこには女が居た。白い肢体が誘うようにうごめく。サエキクン、今日はあたしとご飯でしょ。ああ、うん、そうだったね。吐きそうになりながらうなずき、彼女の姿を探す。どこにも居ない。女の白い手が伸びる。あなたはできる子でしょう、あんな店に執着なんて。お前はもっと頭のいい子だと思っていたんだがな。
 目は彼女を探している。彼女じゃなくてもいい、祖父の優しい手でもいい。誰でもいい、助けてくれよ。

 けたたましい着信音が瑛の目を覚まさせた。寝転がったまま電話を取る。
「もしもし、瑛くん?」
「なに」出なければよかった、と小さく舌打ちをする。「明日の時間割でも聞きたいのか」
「そうじゃなくて。今日、気分悪いみたいだったから。わたし、ぼんやりしてて気に障ることしちゃったのかなって」
 そうだ、と言いかけて、やめた。「いや、お前は悪くないんだ。分かってる。俺がどうかしてた、こっちから電話すべきだったのに。本当にごめん」
「わたし、わかるよ」彼女は澄んだ声で、そう言った。「嘘ついてるでしょ」
 まるで指をさされたような感覚がして、瑛はぞくりと背筋を震わせた。意図はわからないくせに、こうやって真実だけを見抜く。こういう所が嫌いだ。嘘で必死に塗り固めてきたプライドだとかそういったものがぜんぶ、こいつの前では役に立たない。何もかも剥がれ落ちた自分はみじめでかわいそうな子どもなのだ。少なくとも彼女にはそう見えているんじゃないかと時折思って、情けなくなる。
「――お前が悪いって、わかってるならいい」
 少しの逡巡の後にひねり出せたのは、そんな拙いセリフだった。電話の向こうの少し緊張していた彼女の息が、すっと穏やかなものになるのがわかった。
「うん、ごめん」
 ちゃんと謝らなければ、と思った。しかるべき場所で、然るべき段取りを踏んだ後に。
「あのさ、埋め合わせしろよ」
「埋め合わせ?」
「梅雨が明けて夏になったら、付き合えよ。遊園地でお化け屋敷だ」
 いかにも嫌そうな声をもらす彼女の声を聞きながら、ベッドから体を起こして立ち上がる。ゴミ箱の横に落ちた白い紙の塊を指の先でつまみ、少し離れて投げる。白球は弧を描き、すとんとゴミ箱の中へ収まった。



2011/6/28