In the trunk











たとえ、大きな戦争を乗り越えその後の変革にも耐え抜き、海を渡ったり多くの人々の手に渡ったりしつつも金具の一つ錆びるわけでもなく無傷のままであったとしても、そのトランクはただのトランクに他ならないものとしてそこに存在していた。
人々は、それがそこに存在していることを認める以上の興味は抱かなかった。地味なトランクなのだ。真っ黒で四角く、鈍い光を反射しており、取っ手は伸縮自在で持ち手の方が手垢で少し汚れている。高級そうでもないし、むしろ薄汚れたただのトランクにすぎなかった。
マリエは、そのトランクを憂鬱そうに眺めていた。トランク自体が憂鬱なのではなく、マリエを覆っているこの世界そのものが憂鬱なのだ、というような表情だった。実際、マリエが憂鬱になるのもわからない話ではなかった。今は夕暮れ時であり、空は頭痛がするくらいに眩しく赤い、熟れたびわのような色をしている夕日に照らされている部分と、薄く紺に染まり始めているその真逆の方向とで鮮やかなグラデーションを描いている。そこには不吉な予感のように黒ずんだ雲がそこかしこに浮いており、マリエには世界の終焉の風景を眺めているように思えた。
マリエが腰掛けているのは古い冷蔵庫で、食べ物の染みや無数の黒い傷があった。マリエのそばに転がっているのは、そんな大型の電気機器から玩具のブロック、生ごみとかそういうものたちだった。それぞれが異臭を放っており、それらは一様にして酸っぱくて、マリエの鼻を刺す。なのでマリエは絶えず鼻を鳴らしていた。
要するに、ここはゴミ捨て場だ。マリエの腰掛けている冷蔵庫もマリエの目の前のトランクもそしてマリエ自身も、何かしら世界の中で不要になってここにやってきたのだ。陰鬱な空気とあきらめのため息で満たされ、怒りに満ちた地団駄のような細切れの風の音のみが、この場所に許された音だった。そんな場所に居て、憂鬱にならないはずがなかった。けれども、彼らやマリエにいったい何ができたのだろう?そういう何かを排除しようという流れは途方もなく大きく強く、すべてのものを飲み込んでしまうのだ。


トランクは途方に暮れているらしかった。何しろ捨てられたばかりだったし、いかにもまだ使えそうだった。マリエはそんなトランクに同情してやりたかったが、どうもそのトランクは悲観的過ぎた。その陰影や物言わぬ姿勢なんかが、いかにもという痛みの臭いをぷんぷんさせているのだ。眺めているうちにマリエはだんだん退屈になってきて、トランクをくるくる回したり、引っかいてみたりした。舐めたら、ほんの少しの苦味と塩味がした。マリエはトランクを振った。取っ手の金具がごつごつと鳴るだけで、中には何も入っていないようだった。まるきりの空洞の音がした。マリエはその音に、僅かな奇妙な感じを覚えた。空っぽなのだけれども、しかし、なにか大きなものが中に詰まっているような、そういう音だった。
その瞬間、空気がぐっと重くなったように思えた。やおら身体が冷たくなり、目の奥がきつく痛み始めた。マリエは下腹部に力を入れて、唇を噛締めた。マリエがトランクを開けようとすればするほど、その感覚は強くなるようだった。マリエは耐え切れずに、トランクを投げた。それは鈍い音を立てて足元に落ち、テレビの液晶を砕き、廃棄物の山を滑り落ち、マリエが座っていた冷蔵庫の上よりもずっとずっと下で止まった。それでも頑なに、トランクは開かないようだった。マリエは荒い息をつき、切れた唇を舐め、鼻を大きく鳴らした。そして、トランクを拾いに下まで下りていった。関わるのは良くないとマリエの感覚が告げていたが、やっぱりトランクが気になった。どうして中身が見られないのか?トランクが拒否しているのだろうか?
拾ってやると、トランクは物悲しそうに訴えた。
――どうして私を投げたりしたんですか。
「あんたを開けようとしたら、ものすっごく不快になったの」マリエは高圧的に言った。「あたし、我慢できなかったわ」
 そうですか、とトランクは、この世が終わったかのような声で言った。
「ねえ、あれはあんたがやってるの?トランクを開けようとしたから、ああなったの?」
いいえ、私はそれに関与できません。しかしそれは非常にやっかいなことに、私の身体の一部として存在しているのです。それは強く、大きく、私や世界でさえも変え得る力を持っています。そしてそれは、私の身体を開けるということに対して、とても強い恐怖感を持っているのです。
 マリエはうつむいた。トランクもそうとうそれを疎んでいるようで、その悲観的な態度も否めなかった。それに、それを口にするときは語調が気味の悪いイントネーションを含むのがわかった。そのことでマリエは少し、同情的な気持ちになることができた。
「じゃあさ、それって、もしかして夕焼けみたいな感じなの?」とマリエは訊ねた。
ともすれば、そうかもしれません。いずれにせよそれは私の手には余るものです。
 ぞっとして、マリエは身体を振るわせた。マリエは夕焼けが大嫌いで、先ほどそんなふうなものに触れたということに対して、とてつもない嫌悪感がした。マリエは今すぐ、トランクと出会ったことを忘れたくなった。
 そんなに怯えないでください、とトランクは言った。あなたにお願いがあるのです。それを追い払ってもらえませんか?
「どうして、あたしがそんなことをしなくちゃならないのよ。それに、あたしにそれを追い払えるような能力があるとも思えないわ」
 いいえ、私にはわかるのです。あなたにはそれを追い払う能力と責務があり、それらは疑うべくもないあなたの才能です。
 マリエは今すぐ逃げようと思った。どうしようもなくやっかいなことに巻き込まれそうなのがわかったし、ひどく恐ろしかった。しかし、身体はでくのぼうのようになってしまっていて、マリエの思うように動かなかった。肝心なときに限って体がこうなるのを、マリエは過去にも何度か経験していた。
 やり方は簡単です、とトランクは続けた。あなたはまず、私を連れてこのゴミ捨て場を出なくてはなりません。あなたには使命が与えられ、この場所には似つかわしくなくなりました。あなたは今や、世界の命運を握っていると言っても過言ではありません。ここを出た後は『淵』まで行ってください、行き方や場所は私が教えますし、それからのことは複雑になりますから、到着してからお話しましょう。さあ、早く。
 いつの間にか、マリエはトランクを抱えて走っていた。廃棄物たちの呻きが背後に聞こえ、夕焼けのせいで輪郭が黄色くてらった、濃い闇のような身体をゆすり、マリエをここから逃すまいとした。身体の内側の繊細な部分から引き裂かれていくような音とともに、マリエのほほを引っかき、腕を捕らえ、道をふさごうとした。夕焼けとそれらを背にして走りながら、やっぱり夕焼けは嫌いだ、とマリエは思った。廃棄物たちのせいで服は汚れ、足はもつれ、身体にはいくつもの傷ができ、そのうえ久しぶりに走ったせいで肺が痛み始めた。けれども、マリエの頭はとてもクリアになっており、心はカナリアのように明るく踊っていた。自分には使命があり、再び外の世界に戻れるのだと思うと、やっぱりうれしかった。マリエは、おおおおおおという意味のない叫び声をあげて迫ってくる廃棄物たちとは、すでに違っていたのだ。彼らは不要であり、取るに足らないものたちなのだ。マリエは廃棄物たちを引き連れ、遠くに見える出口までめちゃくちゃに走った。
 自分の足音が、引き伸ばされたように大きく聞こえた。廃棄物たちを踏みつけ、蹴り上げ、彼らが死んでしまう音であり、それはまるでベンツをめちゃめちゃに叩き壊しているようにも聞こえた。マリエにはどちらでもいいことだったが、いずれにせよその音たちは少しずつ小さくなっていった。マリエの駆ける音はやがて、ごく当たり前の大地をごく当たり前に駆けていく音に変わっていた。廃棄物たちはすでにマリエを追っていなかった。マリエは出口に辿り着いていた。
出口は大きな門だった。鮮やかな緑に塗られた木材でできていて、表面にはマリエのこぶしほどの大きさの耳の彫刻が無数に彫られている。緑色の、きめの細かい網で作られたフェンスと一つながりになっていて、それは実に異様であり、すでに消えかけている夕日の淡い光に照らされて、マリエにはかなりぞっとしない光景に思えた。耳は何かを象徴するものであって、マリエは何かを象徴するものを信じない主義だった。
 門の前には、門番が立っていた。彼はにっこり笑って頭を下げた。まだ若い、十代の少年だった。紫の帽子と紫のシャツと紫のズボンと紫の靴を身に着けていて、顔はその帽子に隠れて見えない。マリエはふと、髪の毛も紫なんだろうかと疑問に思った。いずれにせよ、かなり奇抜な格好であることは間違いなかった。マリエは、門と門番の色の対照のせいで、すべてものが奥行きを失ってしまったかのように思った。
「通行許可証がないと出られないよ」と門番は言った。「君、持ってるの?」
「わかんない。ちょっと待って、今探すから」
 ポケットをご覧なさい、とトランクがこっそり言った。マリエはそっとポケットの中に手を突っ込んだ。ポケットに手を突っ込むのは久しぶりだったし、その中に何かが入っているということも久しぶりだった。このゴミ捨て場に来る前のことを、マリエはほとんど忘れかけていたのだった。もちろんポケットの中には小さな紙切れが入っており、マリエは赤ん坊のゆりかごを揺するときのように優しく取り出して、門番にそれを見せた。
「ほんものだ」門番は目を見開いた。「まじかよ、おれ、ほんものを初めて見た」
「あたし以外にここを出た人は居なかったの?」 「居たかもしれないけど、おれは見てないよ。前の門番なら知ってるかもしれない。それにしても、すげえなあ。君、いったい何者だい?」
マリエは首を振った。「あんたは自分が何者だか説明できるのかしら?」
門番は一瞬動きを止めて、顎に手を当てて考え込むようなふうをした。「考えたこともないや」
 そうでしょ、とマリエはくすくす笑った。とたんにトランクが、ちっちと舌打ちをした。
 早く門を開けてもらいなさい、夜になると門は開かなくなるし、門番の勤務時間も終わってしまいますよ。
 マリエはうなずいた。空には金星が見えていて、それも今に姿を消しそうだった。
「ねえ、早く門を開けてちょうだい。夜になっちゃうわよ」
「そうだ、いけない」門番は門の横にある大きなハンドルをつかんだ。きりんの形をした、黒金で作られたハンドルだった。「そら開けるぞ、君も手伝って」
 マリエはトランクを置き、門番と一緒にハンドルを握った。そして、息を合わせて身体ごとそれを回し始めた。一回しするたびに体中の筋肉と骨が軋み、こめかみと背中から汗が吹き出た。ひどく重いハンドルだったし、隣に居る門番の息づかいが熱かった。門が開ききる前に、夜になってしまうような気がした。扉はごく緩慢な動作で動いていた。
ようやく人一人通れるほど門が開いたとたんに、マリエはトランクを拾い上げて出口へ駆けた。
「がんばりなよ、君の行く先にはきっと困難が待ってる」門番が手を振りながら叫んだ。
「ありがとう」マリエは微笑んだ。「ついでに、あんた、服の趣味が悪いわよ」
「やっぱりそう思う?でも、制服なんだ」
 門番の声と同時にマリエは門の外へ出、門は閉まった。地上のすべてのコンドルの鳴き声を合わせたような音が、そこら中に響き渡った。門の中から、廃棄物たちのねたみの声があがるのがわかった。
 途方もない困難です、とトランクは呟いた。これからあなたを待ち受けるのは、途方もない困難と苦痛と孤独です。おわかりですね?
「もちろん」とマリエは答える。「でも、それはあんたが一番多く持っているんでしょう」
 トランクはじっと沈黙した。世界中が氷河期になったかのような沈黙だった。マリエは目を閉じ、トランクの中身を思った。やはりそこには沈黙があり、マリエには想像もつかないほど寂しい、それのイメージが横たわっていた。
「ねえ、私はあんたを救うことができると思う?」マリエは言い、トランクは沈黙し続けた。「私にも、何かができるのかしら」
 マリエはトランクを抱きしめた。自分と一つになるように、トランクの四角い縁の痕が体に残るくらいに強く抱きしめた。

 






2009/12/08

昔書いた中では一番ヘンかも