冬のバラッド











日差しはあったかくて、風は春のにおいがする。でも、まだ空気は冷たい。ぼくは薄着で出てきてしまったことを後悔して、体を縮めた。腰かけている石のベンチも、ぼくから体温を奪っていくような気がする。
 公園は閑散としていた。近所にもう一つ、大きくてきれいな公園があるから、みんなそっちへ行くのだろう。残念ながら、この公園にはあんまり魅力が無い。遊具に描かれた動物もぶさいくだし、何よりも古いから、大人も子供をここで遊ばせたがらないのだ。そのせいで、この公園にはお年寄りや、疲れた顔のおじさんや、ぼくのようなくたびれた少年しかやってこない。類は友を呼ぶとはよく言ったものだ。
だから、今ぼくの隣に座っているようなお姉さんは、すごく珍しかった。ちらりと眼の端で彼女を見る。見たことのない制服だけど、胸のところについている校章に「高」と描かれているから、きっと高校生なのだろう。携帯をいじるでもなく、本を読むでもなく、音楽を聴くでもなく、ぼんやりと前を見ている。彼女の視線の先にはこちらに尻を向けたぶさいくな猿の絵があったけど、それを見つめているわけでもなさそうだった。なんとなく、声をかけるのもためらわれて、ぼくは居心地悪くみじろぎした。
ぼくと彼女は、2時間前からずっとこうして座っている。ぼくは帰るわけにはいかない用事があるからここにずっと居座っているのだが、彼女はどうだかしらない。ほとんど身動きせず、人形みたいにじっとしている。実際、彼女は人形みたいにきれいだった。肌は真っ白けで、細くて、髪はふわふわで、かわいい。意識すると余計にどきどきしてくるので、ぼくはお姉さんから目をそらした。
「ねえ、君」
「え」
 突然話しかけられて、ぼくは随分間抜けな声を出してしまった。彼女は真面目な顔で、こちらをじっと見つめている。ぼくは恥ずかしくなって、耳が熱くなった。
「名前は?」
「え?」不意の質問に慌てて、ぼくは慌てた。「と、冬馬。小学5年生です」
 お姉さんは目を丸くした。なにも、何年生かまで答える必要はなかったのだ。ああ、穴があったら入りたい。ぼくの慌てっぷりがおかしかったのか、彼女は声をあげて笑っている。そんなに笑うことないのに。
「君、おもしろいね」彼女はおかしくてしょうがない、という表情でぼくのすぐ隣までやってきた。「あたし、冬子。冬の子って書くの」
「あ、ぼくの冬馬も、冬の馬って書くんです」
 やや平静を取り戻したぼくが答えると、冬子さんは嬉しそうに笑った。
「同じね。姉弟みたい」
 冬子さんの笑顔は、春のお日さまみたいに優しくてきれいだった。彼女が身をゆらして笑うたびに良い匂いがする。ぼくのクラスの女の子は、こんな匂いがしたっけ。ちょっと違う気がする。
「ねえ、冬馬君はきょうだい、居るの?」
 一瞬ドキッとして、ぼくは冬子さんの顔を見た。その顔は至って無邪気で、なんのてらいもなく聞いてきたようだった。ぼくは少し安心して、そして悩んだ。彼女に話してもいいかどうか。
「あ、ごめん。話したくなかったら話さなくてもいいから」
 その言葉に後押しされて、ぼくは決めた。この人になら話してもいい。
「大丈夫です。あの、弟がいます。春人っていうの。ぼくの一つ下です」
「お兄ちゃんなんだ」
「はい。でも、ぼく、春人のこと嫌いなんです」
 冬子さんは少し難しそうな顔をして、真剣にぼくを見た。
「どうして?」
「あいつ、ぼくのもの皆とっちゃうんです。しかも、それを当たり前に思ってるんだ。それで、ぼく、思った。あいつがこのまま大きくなったら、いつかぼくらが大人になっても、ぼくのものを平気で取り続けるんじゃないかって。それを考えてると、すごく怖くなっちゃって。だから、ぼくはあいつのこと嫌いです」
「とるって、何をとったの?」
 ぼくは一息ついて、続けた。
「小さいころからのを挙げると、ゲーム、おもちゃ、マンガ、お気に入りだった鞄、そこまでは全然かまわなかった。でもこの間、おじいちゃんからもらった腕時計をあいつ、とっちゃったんだ。あれは世界に一つしかない、ぼくの名前入りのだったのに」
 そこまで言って、ぼくは冬子さんの反応を見た。少し、子どもっぽい理由だったかもしれないと自分でも思いはじめていたからだ。笑われたら、たぶん立ち直れない。でも、冬子さんはやっぱり物凄く真剣な顔でぼくの話を聞いていた。ほっとして、ぼくはまた続けた。
「父さんも母さんも、お兄ちゃんなんだから少し貸してあげるくらい良いじゃない。すぐ飽きるからって言いました。でも、二人ともいつもそうやって同じことを言うんです。そして、いつもぼくのものは帰ってこなかった。もちろん、ぼくの方が年上で物も分かるし、我慢すべきことはたくさんあるんだと思う。でも、でも、二人とも弟に甘すぎるんだ。確かに弟はぼくなんかよりはるかに可愛い。ぼくは生意気だから。でも親って、子どものことを平等に扱うべきだとぼくは思うんです。だから、今日は家に帰らない。ぼくなりのストライキです」
 冬子さんはそこまで聞いて、ゆっくりと一度、瞬きをした。そうして、ぼくの冷えた指をぎゅっと握る。
「君はすごいね。ちゃんと物を考えてる」
 冬子さんの指は細くて柔らかくて、そしてぼくの手より冷え切っていた。ぼくは何だか切なくなって、声を殺して泣いた。こんなに長く喋って、生意気だ、可愛くないと言われなかったのは初めてだった。ぼくが泣きやむまで、冬子さんはずっと手を握っていてくれた。
 ぼくは、随分泣いていたと思う。日はやや沈み始めて、淡い夕焼けの光が腫れた目を刺した。冬子さんはやっぱりぼくの隣にぴったり寄り添って、手を握っていてくれた。ぼくはなんだか恥ずかしくなって、冬子さんに握られた手をもぞもぞと動かした。そのままでいたら、手に汗をかきそうだ。でも彼女はそれに気づかないふりをして、ぼくの手を捕まえるように強く握った。
「ごめん、次はあたしの話、聞いてくれる?」
 ぼくは、頷いた。そして冬子さんは、話を始めた。

 あたしね、恋人がいたの。あたしよりもずっと大人で、かっこよくて、頭がよくて、優しかった。寝ても覚めても、勉強してても、何してても彼のことばかり考えてた。夢中だったのね。
 そのせいか、どんどん勉強ができなくなっちゃったの。あたし、勉強が得意だったから、皆から不思議がられたわ。両親もすごく戸惑って、何度もあたし、怒られた。何があったのか、どうして勉強に身を打ちこめないのか。どんなに問い詰められても、あたし、彼のことを言わなかった。成績が落ちたのは彼のせいじゃないし。
 それで、ある日、彼のことが両親にばれたの。あたしの友達がぽろっと漏らしちゃったのね。もともと口が軽い子だったし、あたしもそれを知ってて話したから、まあしょうがないわね。
 両親は怒ったわ。ものすごく怒った。怒鳴り声は雷が落ちたかと思うくらい激しかったし、顔はリンゴみたいに真っ赤だった。あたしの両親って、ふだんはすごく穏やかな人たちだったから、驚いた。こんなに怒ることができる人たちなのかって。それで、あたしに「そいつに会わせろ」って言ってきた。もちろん断った。こんな風に怒ってる人たちに彼を引き渡したら、どうなるか分かり切ってたもんね。あたし、すごく困って、彼に相談したの。彼はあたしより大人で賢かったから、きっとなんとかしてくれると思ったのね。
 彼はあたしの話を聞いて、すごく嫌な顔をして、こう言った。
「ああ、めんどくさい。だから女子高生は嫌なんだ。もういいや、お前にもそろそろ飽きたし、別れよう。ああ、でも、最後に一発やらせろよ」
 何を言われたのか、あたしさっぱりわからなかった。そのあと、襲ってきたそいつを殴って、なんとか逃げ出したわ。その最中も、彼の言ったことの意味をずっと考えてたわ。そのままの意味だったのに、私には遠くの国の言語のように聞こえた。賢くて優しくて大人でかっこいい彼の口から出る言葉とはぜんぜん違ってて、耳慣れない外国語みたいに思えたのね。
 逃げて、逃げて、自分の家に泣きながら帰った。父さんも母さんもすごく心配して、あたしを抱きしめてくれたり、優しい言葉をかけたりしてくれた。しばらく学校休んで、じっと自分の部屋で考えたわ。そして、わかった。終わったんだって。
 ねえ、あたし、それでもあれを恋だったと思うの。あの人のことが好きで、好きで、死んでもいいくらい愛してた。忘れなさいって皆言うの。それはあたしの頭で考えてない、あいつに無理やりそう思わされてただけだって。だから忘れなさいって。
 でも、あたし、好きだった。恋だったって思ってもいいのよね。もう終わっちゃったけど、あれはあたしの恋だった。ねえ、良いよね。

冬子さんは、さっきのぼくみたいにぼろぼろ泣き始めた。ぼくは、何を言って良いのかわからなくて、でも何か言ってあげたくて、みっともなく口を開けたり閉じたりした。でも結局何も言えずに、ぼくはただ彼女の手を握っていた。ぼくの手と彼女の手は同じ温度になって、一つになったみたいにぎゅっと硬く握りあっていた。
ぼくは、冬子さんの話を思い出しながら、自分がやけに恥ずかしくなった。冬子さんは大人だ、ぼくよりもずっと。ぼくがここに居る理由なんて、冬子さんの理由に比べたらゴジラの前のミジンコだ。冬子さんに寄り添いながら、ぼくはどうして自分がこんなにも子どもなのか悔しく思った。ぼくの手がもう少し大きくて、背ももう少し高ければ、冬子さんの手を包んで背中を抱きしめてあげられたのに。冬子さんの体はあったかくて、ふわふわしてて、すぐ飛んでいきそうなほど細かった。ぼくは神さまに祈った。ぼくのもの皆、弟にあげていいから、今だけ冬子さんを守れる大人にしてください。
ぼくは今、冬子さんのためなら何もいらない。そう思って、ぼくは一層冬子さんの手を強く握った。
「ありがとう」
冬子さんは震える声で、言った。
彼女はやっぱり大人だ。ぼくよりもずっと早く泣きやんだ。辺りはもうすっかり暗くなっていた。星がぽつぽつと、紺の空に浮かんでいる。冬子さんは自分のハンカチで、目頭をふいていた。お母さんが外出するときはハンカチを持ち歩けって言っていた理由が今、わかった気がする。
「冬馬君はきっと将来、かっこいい男の人になるよ」冬子さんはそう言って笑った。桜みたいな笑みだと思った。
「ぼく、今すぐかっこいい大人の男になりたいです」
 そうぼくが言うと、冬子さんは声を上げて笑った。「じゃあ、してあげる」
 ぼくが何か言う前に、冬子さんはぼくに口づけていた。柔らかい感触が一瞬唇を掠め、冬子さんの甘いにおいが頭の中いっぱいに入り込んだ。
「あ」
 情けない声をあげるぼくに、彼女はもう一度口づけた。今度は少し長いキスだった。
「冬馬君、今度から恋人はいるかって聞かれたら、君の名前を言ってもいいかな」
「え、う、はい」
「ありがとう」
 冬子さんはそう言って、立ち上がった。手をつないだままのぼくも、強制的に立ってしまう。冷たい夜の風が吹く。薄着のぼくと冬子さんは、寒さで小さく震えた。今までずっとくっついてたから、寒くなかったのだ。ぼくたちはお互いに、笑いあった。
「じゃあ、家に帰ろうか」
 それから、ぼくと冬子さんの手は自然に離れた。手を離しても、冬子さんの手の感触はずっと残っていた。
「さよなら」ぼくは、声を絞り出して言った。
冬子さんは、満面の笑みでぼくに手を振った。「さよなら」
 ぼくの帰る道と逆方向に駆けて行く冬子さんの背中を見送って、ぼくは帰路を急いだ。なにも言わずに出てきてしまったから、きっと父さんも母さんも心配してるだろう。そして春人も、案外寂しがり屋だからすねているかもしれない。帰りに、お菓子でも買って行ってやろうか。ぼくはたぶん、あいつが嫌いな分だけきっと、あいつのことが可愛いのだ。
 両親のどなる声と、春人の喜ぶ声を想像しながら、ぼくは家に帰った。



2010/4/01

女子高生×小学生ってすごく萌える