「夕焼け」
 千尋がぽつんと言ったので、那岐は読んでいた本から顔を上げた。青い目が、じっと赤い日を見る。思わずその目を覆いたくなって上げた手を、那岐は極力静かに膝の上に置いた。
「夕焼けはどうでもいいけど、アイスが溶けるよ」
「あ」
 彼女は慌てたように、溶けて手の甲を滑り落ちるアイスの雫を見た。見るだけじゃダメじゃないか、と那岐は人差し指でそれを塞き止めた。みるみるうちに指のダムは決壊し、再び彼女の腕を伝い始める。ちっと舌打ちをして、那岐は足の先で近くにあったティッシュを引き寄せた。腕を拭ってやり、溶けかけたアイスを奪ってティッシュの上に置く。千尋はされるがままになっていた。いつもはきっちりしすぎている彼女が、珍しいものだと那岐は訝しんだ。まあ、わからないでもない。暑さのピークは過ぎたといえ、地面から照り返す熱がじりじりと足の指を焼き、風はいやに生ぬるい。こんな日はずっとクーラーのかかった涼しい部屋で寝てるに限る、と那岐は思う。夏は嫌いだ。
「まだ食べかけだったのに」
「早く食べないのが悪い。こんなクソ暑い日に冷房つけないから、頭が回らないんだ」
 そう、今日は朝から一日中冷房を使っていない。じっとしているだけで汗が出るような日に、こんな常軌を逸した事をするなんて全く那岐の感性では理解できなかった。部屋の隅で申し訳程度に風を送っている扇風機を一瞥し、彼はため息をついた。
「ずっと冷房かけてたら体に悪いわ。電気代もかさむし。それに、アイスは暑いときに暑い場所で食べるからおいしいんだよ」
それはわかったけど、自分まで巻き込まないでほしいと思う。那岐は、夏の日を涼しい場所でのんびり楽しみたいのだ。こめかみの辺りに玉のような汗が浮かんでいるのを見ると、彼女もこの暑さには耐えかねているに違いない。真面目なのは美点だが、もう少し要領よくやればいいのに。那岐は再びため息をついて、ティッシュに突っ込んだアイスを片すべく立ち上がった。
「あ、私がやるから」
「いいから、座ってて。手がベタベタするから、ついでに洗いたいんだ」
「私も手、洗いたいもの。一緒に行くわ」
 無理やり座らせて、流しに向かう。部屋を出る前に、千尋はもう一度窓の外を見つめる。青い目に赤い光が照り返すのを見て、那岐は胸がざわつくのを感じた。
「あのね、私、どうしても行かなければならない場所があるような気がするの」
 手を洗いながら千尋はそう呟いた。「夕焼けを見ると胸が苦しくて、どこか遠く、何か忘れてるような」
 彼女の目はぼんやりとうつろになる。不思議なものだと思う。あの国で二の姫は、ろくな扱いを受けなかったと聞く。那岐自身もいい思い出はない。それでも、封じられている記憶を引っ張り出そうとするほど、懐かしく思うものなのだろうか。そんな風にどうしようもない悲しい目をして、思い出すほど大切なことなのだろうか。那岐にはよくわからない。
 返事をせずにいると、千尋はいつまでも水を流し続けていそうだった。生ぬるい水をその頬に跳ね上げてやると、眉を吊り上げようやくこちらを見た。
「なにするのよ」
「いつまでも間抜けな顔してるからだろ。くだらないこと言ってないで、涼しい部屋で少し休みなよ。顔が猿みたいに赤いよ」
 次の瞬間には水しぶきが顔中に飛んできた。顔を拭った後には、彼女の姿は無かった。
 
 外を見ると、もう夕日は姿を消していた。部屋に戻り自分のベッドに倒れこむ。シーツが含んだ熱気がゆったりと自分の体を包んだ。冷房をかけると、嫌な生ぬるさは大分ましになった。
 日が暮れ、青暗さを増す部屋の色が、遠くを見つめる彼女の瞳を思い出させた。
 那岐にはわからない。千尋がどうしてあの世界に焦がれるのか、見当がつかない。彼女の中に眠っている王女としての使命感がそうさせるのか、それとも、彼女が慕っていたという姉への憧憬か、風早と過ごした幼い日々への懐古か、この世界に来る直前の恐怖をはき違えているのか。
 同じ髪の色、忌み嫌われた過去が同じだからか、認めたくないが、彼女にはなにか特別な同族意識のようなものがあったから、余計にもやもやと、彼女の感覚がわからないのがもどかしい。
 もちろん自分にだって、あの世界での大切な思い出はある。けれども、決してあの世界にこだわる理由にはならない。向こうに行けば否が応でも、今以上の面倒に巻き込まれるのはわかっている。たまの面倒さえなければ、この穏やかな生活はそれなりに気に入っていると言ってもよかった。
 目を閉じると、赤い炎がちらついた。気を失いぐったりとした千尋と、わけもわからず呆然としている自分の手を、大きなてのひらが導く。馴染めないなら馴染めないままでいい。でも、もう、あんなのはたくさんだ。青と赤が混じって、意識がゆっくりと沈み込む。
 初めて見た時、夏みたいだと思ったのだ。太陽みたいに明るい金の髪も深くて澄んだ空みたいな青の瞳も、暑くてうっとしい夏の風景に似ていた。
 少し眠ろう、と那岐は思った。少し眠って目が覚めたら、千尋は夕焼けのことなんて忘れて晩ご飯だよ、と自分を起こしに来る。暗い部屋が少し開いて、彼女の明るい髪の色がのぞく。青い目がきらめく。夏は嫌いだと那岐は思う。
――でも過ぎてしまえば、この溶けるような暑さもうるさいほどの眩しさも、恋しくなるのかも知れない。
 それは無いな、と呟いて、ほどよく冷えた部屋で那岐はあくびをした。



2012/1/1
書き直したい