*孤高の書・柊











 彼はいつも書庫に居た。
 その部屋がずっと昔から書庫であったかどうかは知らないが、そこには膨大な数の書物が置いてあり、本棚に納められ、埃を被っていた。彼はそこに紛れるように存在していた。手の上に広げられた竹簡には、私には記号のような文字がいくつもつづられており、彼はそれをつぶさに見つめる。時折何かを確かめるように呟き、目を閉じる。そうして目を閉じると、彼のまつげが長く、まるで岩が日に当たってできる影みたいに深い陰影が浮かぶのがわかった。そういうときには、やはり軽薄に積み重ねられる言葉こそがこの人を邪魔していると思わざるを得なかった。書を読んでいる時の彼の姿は、今まで立ち会ったどんな瞬間よりも静謐だった。
 私がそこを訪れると、彼はすぐそれに気付く。だから、そんな彼の姿を見ることが出来たのは、全くの偶然だった。禍ツ日神を倒し、即位の準備に追われるなかで与えられた、一時ほどの休憩時間である。たまたま通りがかった書庫で、彼はそうして竹簡を読んでいた。長く細い指が文字をたどり、深い色の目が微かに揺れる。そんな表情をしているのは初めてで、私はなんだかいけないものを見てしまったような気がして、後ずさりしてしまった。衣擦れの音に、彼はさっと竹簡を閉じ、こちらに目をやった。先ほどまでの空気は微塵も残っていなかった。
「おや、我が君。このような所へいらっしゃるとは、気付くのが遅れて申し訳ありません。――ああ、疲れていらっしゃいますね。手稲石のように美しい瞳がかげっていらっしゃる。私がその疲れを代わって差し上げられたらいいのですが」
 彼はぺらぺらと言葉を紡ぎながらこちらへ近づき、私の顔を覗き込む。頬に軽く血が上る。
「たまたま通りがかったものだから。ごめんなさい、邪魔をしてしまったかしら」
「いいえ、我が君。調べ物をしていたのですが、ちょうど行き詰っていたところでして。あなたの日の光のような御髪を見ていると、太陽が恋しくなりました。よろしければ、私も姫とご一緒に休憩をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、ありがとう」
 私が答えると、彼はそっと私の手を取った。大げさなほどの口調と仕草に、慇懃無礼だと野次を投げかける人も居る。私自身、そう思ったことも多い。しかし、このときだけは、まるで恋人を扱うように振舞ってくれた。手袋越しの指は冷たく固かった。この指先で竹簡の文字をたどっていたのだと思うと、僅かに胸が高鳴った。あの瞬間あの仕草あの表情の彼が、頭の中を離れなかった。
 私たちは庭の一角に設えられた椅子に腰掛けた。柔らかな春の日差しが、ほどよく体を温める。整えられた草木や静かに揺れる池の水面が張り詰めていた神経を和らげるような気がした。人心地ついた私の手を、柊はそっと離した。
「ああ、良い天気ですね。姫がこうして庭に姿を表したことを祝福しているのでしょう。あなたとこうして過ごしていると、嫉妬で目をつぶされるかもしれません」彼は少し目を細める。「もちろん、あなたの隣を譲りはしませんが」
 彼のペースに乗せられないよう聞き流しながら、私はぼんやりと彼を見つめる。彼はこんなにも言葉を紡ぐのに、私は彼のことを知らない。だって、あんなふうな顔をするなんて知らなかった。人を見る目には長けているつもりだった。私自身王たるに足る賢さを持っているとは言えないが、手となり足となり動いてくれる人たちは、我ながら信頼できる良い人間を選べたと思う。しかし、彼のことはわからない。くるくる回る万華鏡みたいな言葉に紛れて、彼の本質は、私には上手く見ることができない。奴は生粋の軍師だ、と言った岩長姫の言葉を思い出す。軍師は、見抜かれるような人間であってはならない。その点においても、奴は天才的だよ。他人を滅多に褒めない彼女が言う言葉は、頭に深く残った。
 彼の奥にもう少し踏み込めば見えるものがあるのではないだろうか。さっきの瞬間みたいに、静かで、寂しくて、苦しいような、ひっそりと静まっている彼の感情が。
「姫? どうかなさいましたか」
「あ、え」
「申し訳ございません、私の話が退屈だったのでしょう。どうもいけませんね、こもって書ばかり読んでいると」一拍おいて、彼は続けた。「気がかりなことがあるのでしょう。よろしければ、私にお話ください。我が君の憂いを取り除くお手伝いができるのなら、これ以上嬉しいことはありません」
 私は言葉に詰まった。あなたのことがもっと知りたい、なんて言えば、彼はまたのらりくらりと言葉を重ね、かわしてしまうに違いない。私は少し考えて、口を開いた。
「私は本当に立派な王になれるかどうか、考えてたの」
 彼の顔を見ると、続けるように促された。私は続けた。
「もちろん、そうあろうと務めているわ。でも、人は間違える。何があるか分からない。常世の皇は良き王だったけど、ほんの少しだけあった疑心暗鬼につけいれられて、不幸が重なり歴史に残る暗君になった。私は、人を信じる王になりたいと思っているの。でも」柊は黙ってこちらを見つめている。「私、あなたのことすら知らない」
 一瞬だけ、彼は沈黙した。こちらを見ているような見ていないような、いつもの不思議な視線が、今の私を捉えた。胸が詰まった。
「――あなたにはいつも驚かされます」
「ごめんなさい、その、困らせたかしら」
「いいえ、我が君。あなたがそんなふうに私に興味を持ってくださるのは、とても光栄です。狡兎死して走狗烹らる、と言いますが、私のような者は本来ならば捨て置かれても仕方がありません。あなたは、人を信じることができる。私を知ろうとしてくださるのは」
 流される、と思って私は彼の言葉をさえぎった。「私は、あなたのことが知りたい」
 だめだ、と思った。彼は、答える気がない。柊の人差し指が、私の唇を塞いだ。そしてそのまま、そっとその形を絵取った。アカシャを読み取るときのように、優しく静かに。
 永遠に続くかと思ったその時間は、あっけなく終わった。休憩が終わったことを知らせに、采女が私を探しに来たのだ。柊は彼女たちが来る前に、さっと席を立って行ってしまった。再びあの書庫に篭るのだろうか、と私は想像した。そしてあの膨大な数の書物から一つ取り出して、広げる。軽く目を伏せ、指先で文字をたどり、そっと囁く。書棚と竹簡の上に、埃と時間が降り積もる。彼の姿が、どんどんその中に埋まってゆく。見えなくなる。
 その日の政務は、ほとんど手につかなかった。

 彼が消えたのは、即位してすぐのことだった。先の戦で戦果を上げたとはいえ、一時常世の臣下となっていたこともあって、彼のその後はさまざまな憶測が飛び交った。どの噂も口さがない者たちの手によってどんどん脚色され、さらに彼の姿を覆い隠してしまうようだった。
 私はたまに、書庫を訪れる。彼の残した竹簡を広げ、文字をたどる。目を閉じる。目を閉じた先に、彼の姿は見えない。




2011/9/14