*知盛と重衝と神子











 女の体は水のようだ。色の無い冷たい肌は自分の熱を吸いとり、触れれば思う様に形を変える柔い肉は、まるで自分を呑み込んでしまうような心地がする。しかし一度味わってしまうと、その感覚に溺れてしまう。己を根こそぎ奪われてしまうようで気持ちが悪い。
 それをふと弟に漏らすと、ひどく訝しげな顔をされたのを覚えている。
「兄上らしくもない、私にそのようなことを仰るなんて」
 弟は変わったものを見るような目でそう言った。確かに、自分らしくもないことだと思った。それでも弟――重衝に話をしたのは、これが最後だと直感的に分かったからかもしれない。数日後に、弟と自分は戦場に赴くことになっていた。福原で、和議が行われるのである。
和議など、成るはずがない。そう確信めいた思いが知盛の中にあった。落ち目にある平家がそれでも戦ってこられたのは、憎悪があったからだ。源氏を憎め、我らがこうなったのも源氏のせいだ。平家をまとめていた清盛でさえそう言って一門をまとめていたのだ。源氏だってそうだろう。根深いお互いへの嫌悪を、そうやすやすと水に流せるとはとうてい思えない。
それでも、和議を成す。そう言い放った一門の総領の姿が浮かんで、知盛は苦笑した。
和議は成るまい。戦うことになれば、自分は剣をとるだけだ。自分が戦うためにあるような人間だと、知盛は分かっていた。なぜそうも戦を求めるのかと問われれば、それは呼吸のように自然なものだと知盛は思っている。貴族たちの遊び、小競り合い、噂話、そういったものの中に居るのはひどく息苦しい。魚が空気を求めて水面に顔を出すように、自分には戦が必要だった、ただそれだけだ。
知盛は、ふと重衝を見た。この弟も、おそらく厭いている。血族という言葉をやけに身近に感じて、知盛は唸った。並べて称されるほどよく似た顔が、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「どうなさいましたか」
 いや、と知盛が首を振ると、重衝は空に視線を投げかけた。恋うような熱心さがその視線の中に見つけられて、つられて知盛もそちらに目をやった。僅かに雲がかった空に、少し欠けた月が見える。そう言えば昨日は満月だった、と知盛は思い当った。
「今宵は十六夜、か」
 重衝の肩が僅かに動いた。弟の視線が僅かに泳ぐのが見えて、知盛は思わず口角を持ち上げた。「そういえば、お前は想う女があると言っていたな」
「十六夜の君のことを、仰っているのでしょう」弟は少し逡巡して答えた。
 十六夜の君、重衝が何度もその名を口にしているのを耳にした。自分と同様に女には淡白だったはずの弟が、そこまで一人の女に懸想しているのは初めて見る。しかも、逢瀬をしたのは一度きり。十六夜の月が雲間から現れると共に、煙のようにかき消えてしまったらしい。あやかしにでも騙されたのではないかと思ったものの、まるでかぐや姫を恋い慕う男のごとく熱心な様子の弟を見ると、忠告するのも野暮なようだった。
 しかし知盛も、その十六夜の君とやらに少々興味がわかないでもなかった。あやかしの女、というのはどんな女なのか。
 そんな下世話な思いを汲んだのか、重衝はあからさまに嫌そうな顔をして見せた。
「十六夜の君は、可愛らしいお方でしたよ。鈴のようなお声で、我らの滅びのかねごとを紡ぐ」
「ほう、なかなか剛毅なかんなぎのようだな、その女は」
十六夜の君は、ずいぶんと肝が据わっているようだ。平家の者に平家の滅びを説くなど、並みの度胸では無い。どういう意図を持ってやってきたのかは知れないが、なかなか面白い女だ、と思う。会ってみたいものだな、と漏らすと、重衝は僅かにいらだちを含んだ息を漏らした。
「兄上は、あの方をご存じだと思っていましたが」
 重衝の言葉に、知盛は首をかしげた。
「そんな女なら、出会っても忘れまい。なぜそう思った」 「さて」重衝は、手に持った扇を口元に当てた。「――私の勘違いだったようです」
わずかに涼しくなってきた秋の夕暮れは、どこかわびしい。整えられた庭の隅に生える紅葉が、熟れすぎた果実のように赤々とした葉を実らせている。時折思い出したかのように散っていくそれは、これからの一門の行く末を思わせた。
「もうじき、ここの紅葉も盛りを過ぎますね」
 重衝がぼそりと呟いた。この弟とまともに話すのは、これが最後になった。
 来たる和議の日、交渉は決裂し、弟は姿を消し、平家は福原を追われることになった。

 ああ、これが最後の戦なのだ。空はやけに高く、青い。その青を映した海は眩いばかりに輝いて思わず目を細めてしまう。少女の剣が、知盛の視線を断つように降ってきて、思わずそちらに目をやった。海の冷たい青とは逆に、今剣を交わす少女の目は熱い色を秘めている。
 ――この時くらいは私を見なさい。少女の目の言わんとすることが分かって、知盛は剣の柄を握り直した。少女の赤い唇からは荒い息が絶えまなく吐かれ、柔らかな頬には朱がさしている。一太刀を受ける度、彼女の額から汗が飛ぶ。こうして剣を交わすのは、まるで情事のようだ。この女の肉は熱いだろう、と知盛は思う。少女に剣を突き立てたいような衝動に駆られ、知盛は力を込めて剣を振りおろした。少女の体はそれを避け、こちらにその剣先を向けた。
鋭い熱を感じて、知盛は剣の柄を手放す。鉄の刃が己の肉に食い込む感覚がした。斬激の主――源氏の神子は、驚いたように目を見開く。冷たい金属が体内に触れたというのに、まるで焼印を押されたような熱さが知盛を襲った。剣は、すぐさま体から抜かれた。
「知盛!」
 膝をつく瞬間、源氏の神子の甲高い声が響いた。出会ったときから、こうなる予感はしていたのだ。この女に自分は殺される、と。
炎のような女だ。神子にしておくには勿体ない。神に仕えるものというのは悟ったものだ。全てを知った、凪いだ湖水のような感情は面白くない。剣を合わせたときにもっとも面白いのは、足掻く者の剣だ。刃先に己の生死を乗せて戦う人間の一振りは、限りなく重い。だからこそ面白い。この少女はあどけない顔をして、驚くほどの切実さを持って剣を振るう。いっそ一途と言ってもいいほどの強い視線で、こちらを射抜かんとする。爆ぜる火花のように刹那の輝きを放つその目が、しとどに濡れていくのが見えた。
 何度も、自分の名を呼ぶ声がする。それに一度も応えずに、知盛は船べりに寄った。薄く青みがかった水の深いところで、ちらちらと鮮やかな衣が揺らぐのが見えた。女の化粧道具に、武具、赤い蝶紋の書かれた旗、どれもがゆっくりと、水底を目指して落ちてゆく。
 これほど美しい青をしているのだから、海の底にも都はあるだろう。その都で酒を飲むのも風情があるだろうな、とふと思った。
「知盛、何をするつもりなの」
 少女の声が、僅かに震える。
「見るべきものは、十分に見たさ」知盛は、船べりに手をかけた。「じゃあ、な」
 重心をゆっくりと、後方に預ける。体がゆっくり傾ぎ、こちらに駆け寄る少女の姿が見えた。すかさず骨の細い小さな手がこちらに延ばされる。次いで、少女の大きく見開かれた目の中に映る自分の表情が見えた。その顔は和議の前夜、弟の月を見ている時の顔に似ていて、知盛は口の中で小さく呟いた。
(十六夜の君)
 水底に、弟は居るだろうか。会えたらもう一度、話をしてみるのも悪くないかもしれないと思った。
 冷たい水が視界と全身を覆う。芯まで冷やし、覆うようなそれとは裏腹に、斬られた傷だけはいつまでも熱かった。



2009/12/13