肌がべとつく。教室の蒸し暑さから逃れようと外に視線を向けても、ますます気が滅入るばかりだった。強すぎる日差しに校庭の風景はすっかり白くぼけてしまっていて、やけに現実味がない。
 暑い、と小さくこぼすと、旋毛のあたりにささやかな風が触れた。「将臣くん、シャキッとしなよ。まだ半日しか経ってないじゃない」
「暑いもんは暑い」
「向こうに居たときは、重くて暑そうな鎧着て動き回ってたくせに」
 幼なじみはこちらを扇ぐ手を止め、頬を膨らませる。子どもっぽいそのしぐさがおかしくて、思わず口角が上がる。
「あー、地球温暖化だろ。ぜったいこっちの夏の方が暑い」
 もう、とため息をつくと、彼女は前の席に腰かけた。長い髪が、この気温の中ではひどく暑そうに見える。窓から吹き込む温い風に、彼女はうざったそうに髪をかきあげた。
「おまえ、髪を結わないのか?」
「え?」
「いや、暑そうだと思って」
 将臣は彼女の髪の端をつまみ上げた。指の腹に乗せると、するすると間をすり抜けていく。
 きちんと手入れしているのだろう、絹糸のように美しいその髪は、彼女の薄い背中をゆったりと包み込んでいる。
「だって、将臣くんが」
「俺が?」
 白い頬がさっと朱に染まる。
 意地の悪い質問だとはわかっている。将臣は彼女の髪を指の腹ですきながら、続きを待った。

 そうだ、夏だった。
 向こうの夏はもう少しマシな暑さだった気がする。木々がひしめき合い、うるさいくらいの蝉の声が、頭の上から降り注ぐ。日差しは強かったが、緑の間を縫って来る風は涼しくて気持ちよかった。
 平家に助けられてから、幾度目かの夏。追われて都を去り、かつての栄華は失われ、膿んだ空気がじくじくと彼らを追い詰めていくのを将臣は感じていた。
 清盛が亡くなり、復活を果たしたあと、ますます平家の人間は将臣にすがった。他によすがのない彼らの手を振り払うわけにもいかず、もちろん恩返しをという気持ちもあったが、どうにも気が重い日々が続いている。
「泳ぎてぇな」
 ふと漏れた言葉に驚いて、将臣は笑った。息抜きが必要だということは、自分がいちばんわかっていた。今日くらいは、と将臣は腰を上げ、町へと降りた。
 こういう一日は、幼なじみや弟のことを思い出してしまってしょうがない。
 ――もう、生きているかどうかさえも。
 軽く頭を振ると、髪にこもった熱が少し抜けた。考えてもせんないことだ。道ゆく人の群れに混じり、ため息をつく。
 ここにいるのは将臣じゃなくて、還内府という男ではないのか。将臣など、あちらの世界など、幼なじみも弟も端から存在しなくて、自分は重盛の蘇りで、そうだったらどんなに楽だっただろうか。
 誰もがそうであることを望んでいるように思えて、息苦しくて仕方がない。
 岩場まで来ると、人はまばらになった。海面がギラギラと光り、磯臭いにおいが、湿ったからだにまとわりつく。足下の岩から、熱気が立ち上がってきて、気分が高揚するのを感じた。
 身にまとうものを脱ぐと、一気にからだが軽くなる。
 足を引き、勢いをつけて地面を蹴る。岩の熱とざらつきが強く触れ、わずかに足の裏が痛む。一瞬浮いて、体はすぐに落下し、足から順に、冷たい海面に叩きつけられた。
 沈む。口に溜めた空気が漏れて、ゴボリという音をたてて逃げていく。足をバネにして水を掻くと、柔らかな抵抗と共に体は上昇しはじめた。
 はっと息を吸うと、肺がゆっくりと満たされてゆく。太陽が眩しい。ゆらゆら浮きながら、将臣は空を見上げた。海と同じ濃い青が、目に飛び込んでくる。
 向こうでも、たまに海に潜った。世界は違えど、海は同じだ。海の中では将臣は将臣だったし、なにも強要してくることがなかった。
 空気を限界まで蓄えると、将臣は再び、海に潜った。目を開けると、小さな痛みと共に濁った青が目に飛び込んでくる。足で水をかき、体を沈めていく。重たい抵抗が皮膚を、筋肉を押すが、耐えられぬほどではない。肺から絞り出される空気を必死でつなぎ止め、奥へ、奥へと潜る。
 水を押し退ける指先に長い糸状のものが触れ、将臣はそれを掴んだ。ゆらりと水中に、長い髪が浮かぶ。
 まさか。ぞっとして、将臣は目を見開いた。白い肌が青い光のなかに浮かんだような気がして、将臣は、体の力が抜けていくように思った。
 すっと急浮上する。
 ――将臣くんが助けに来ないから。
 俺は、探したんだ。できる限りのことはした。でも、見つからなかったから、時が来れば会えるだろうと。
 ウソつき、幼なじみの赤い唇が震える。ほんとは怖いくせに。怖いから、探そうとしてくれなかったんでしょう。
 ちがう、俺は。
 兄さんはずるい。弟が、呟く。そう言って、俺たちを助けられなかったことを正当化しようとしてるんだ。
 体が浮く。眩しい。気づくと将臣は、水面に浮かび上がっていた。腕には、長い海草がまとわりついている。
口から深い息が漏れる。海草を引き剥がすと、将臣は泳いで陸に上がった。べたつく肌を拭き、服を纏うとようやく人心地ついた。
「将臣殿、ここに居たのか」
「敦盛か」
 彼がこの時間に外に出ているのは珍しい。将臣の視線に気づいたのか、敦盛はうっすらと微笑んだ。「この時間の浜は、人気がないので」
 日に当たらぬ生活をしているのだ、太陽が恋しくなっても仕方がない。なにより、敦盛は人の機微に細やかな男だった。自分を心配して来たのが、容易に想像できた。
 将臣はうなずき、海に目をやった。
「将臣殿は、帰りたいのではないのか」
「ああ、そりゃ帰れる状態だったら帰りたいな」
「私たちはあなたに頼ってはいけなかったのだ、還内府などと担ぎ上げて」
「俺も助けられた恩があるからな。返せる恩は返したい」
 でも、と敦盛は続ける。「将臣殿は将臣殿だ」
 ふと笑みが漏れた。
「そうだ、俺は俺だな、らしくなかった。敦盛、帰ろうぜ」
 小さくうなずいて先を行く敦盛の後を追いながら、将臣は手に掴んだ海草の感触を思い出した。指を滑る長い、細い、すり抜けてゆく、髪の感触。
 太陽が照りつけて、濡れたからだを焼く。伏せた目の隙間から入り込んでくる光の筋をそっと掴むように、将臣は前に手をかざした。

「将臣くんが、長い髪が好きって言ったんじゃない」幼なじみは、将臣の手から自分の髪を奪い取った。「いじわる」
「ああ、俺はいじわるだよ」
 そう言って髪を一房取って口づけると、彼女はこの上ないくらい顔を真っ赤に染めて、ばか、と小さくささやいた。



2011/5/4