*裏熊野
*将望風味












ああ、頭が痛い。将臣は、ずきずきと痛む後頭部に手をやった。じりじりと焼けつくような日差しが余計に痛みを煽る。今まで修羅場というようなものは一通り経験してきたはずだが、今ほど気を揉んだことはなかったように思う。かきん、と鳴り続ける金属がぶつかり合う音が、やかましく耳を刺す蝉の声と重なって余計に痛みが酷くなるような気がした。
「ちょっと、やめてよ知盛!」
幼馴染の少女の悲鳴じみた声が響いて、将臣は小さくため息をつく。どうしてこんなことになっているのか、さっぱりわからない。全ての異常の元凶は人を食ったような笑みを浮かべ、振りおろす剣を止める様子はない。息を思い切り吸って、将臣は口を開いた。
「おい、知盛、いい加減にしろ!」
ぴたりと、二人の動きが止まった。望美は息切れで肩を上下させ、その場にへたり込む。あれだけ知盛の剣を受けていれば当然だろう。彼が気に入った相手と剣を合わせるときは、殺す気で斬りかかって来るのを将臣は知っていた。知盛といえば、興を削がれた、といった不服そうな面持ちで剣をしまっている。望美が知盛と将臣に同行を始めてから、ずっとこの調子だ。やけに知盛は望美に突っかかるし、望美の態度も何か妙だ。この夏より前に二人が出会っているはずなど無いのに、妙に親しいように見える。
へたり込む望美に手を貸してやると、彼女はいかにも不服という目でこちらを睨んできた。
「将臣君、さっさと知盛を止めてよね。さすがに殺されるかと思ったよ」
彼女の手はじっとりと湿って、僅かに冷たい。悪い、と平謝りすると、鼻を鳴らしてそっぽを向かれた。
「神子殿は機嫌が悪いようだな」くっと笑いながら知盛が呟く。
「誰のせいだ、誰の」
将臣は再び、小さくため息をついた。この男に普通の常識やまともな神経をぶつけても、徒労になる。怨霊によるらしい川の氾濫のせいで、ただでさえ余計な手間を食ってしまっているというのに、将臣は頭が痛くてしょうがなかった。
その日も結局、大した進展もないまま日暮れを迎えることとなった。また明日も来るから、と言って自分の仲間が待つ宿へ向かう望美を見送ると、将臣は複雑な心持になる。ずるずるとこのまま、望美と行動を共にしていいのか。自分たちは平家で、落ち目で、この熊野に居る間も命をいつ狙われてもおかしくない。幼いころから自分の弟と同様に絶対に守るべき対象であったはずなのに、行動を共にすることを許すのは彼女を危険にさらすことになる。
「あの女がそれほど軟に見えるのか」そんな自分の心情を見抜いたのか、知盛はぼそりと言った。「筒井筒の仲の目というのも、存外役に立たないものだな」
うるせえ、と返せば、知盛は気だるそうに伸びをした。
「そうカリカリせずに、今日は一杯やろうぜ。良い夜になりそうだ」
辺りには、すでに濃紺の紗が下りはじめていた。ひとつふたつ出た星が、端から黒く塗りつぶされようとしている空の隅に瞬いている。もうしばらくすれば月も出るだろう。
「そうだな、一杯やるか」
この夏が過ぎたら、おそらく穏やかに酒を飲める日も無くなる。こちらの世界に来てから覚えた酒の味を思い出して、将臣は僅かに口角をあげた。



杯に注いだ酒を一息にあおると、心地よい重みが頭にかかる。昼間の痛みなど嘘のようだ。将臣は機嫌よく、次の一杯をついだ。昼間のまとわりつくような暑さは嘘のように、肌を涼しい夜風が滑って行く。
酒を共に飲む相手としては、知盛は理想の相手だった。そもそも口数の多い男ではないし、酒の席で喋るべき時とそうでない時を弁えている。そういえば、自分に酒の飲み方を教えたのもこの男だったな、と将臣は思い当った。清盛も生前は、よくこの男を一酌に呼んでいたものだ。清盛のことを思うと、僅かに胸が痛む。生前の人柄を思い出せば思い出すほど、今の状態が酷く痛ましく思えた。
「明日こそは、怨霊を何とかしねえとな」
ぽつりとつぶやいた言葉に、知盛がにやりと笑った。
「そういえば、そんな話もあったな」
「そういえば、じゃねえよ」将臣は頭を掻いた。「お前も、望美にちょっかい掛けるの止めろ。そのせいで余計に時間食ってんだからな。わかってるだろ、そんなに悠長にしてられないんだ」
納得いかない、という風に知盛が小首を傾げた。
「ほう、還内府殿は、さして急いでも無いように見えたが」
「どういうことだ」
「幼馴染殿との逢瀬を、楽しんでいらっしゃるのだと思っていた」
そう言って、知盛は酒を一口飲んだ。将臣は何も返せずに、自分の杯を見つめる。今を逃せば、いつ会えるかわからない。望美がそのつもりでこちらに会いに来ているのは知っている。そして、将臣自身もその望美の気持ちに甘えているところがあったのは確かだった。また明日と言って去る少女に、もう来るなと言えないことがその証拠だ。
ゆらゆらと波打つ透明な酒の水面に、浮かない表情の自分が写る。それが気に入らなくて、将臣は一気にそれを飲みほした。
望美に会ってから、正直嫌な予感しかしていない。彼女たちも熊野本宮を目指していること、そして、源氏の神子の噂。次に顔を合わせるときは、もしかすると刀を合わせていることになるかもしれない。そう思うと、恐怖か辛さからか、身震いがする。
「あの女の目が、良い」知盛が唐突に切り出した。「苛烈な、身を焦がすような目だ。剣を交わすとよくわかる」
何を、と言うと、知盛はその鋭い視線をこちらにしかと向けてきた。
「あの女が俺やお前を見るとき、時折彼岸を見るような目をする。その目は気に入らないが、あたりきな娘がする目では無い」
知ってなお覚悟ができている目だ、と知盛は言った。
「なんだ、お前は望美が、俺とお前が平家だということや俺が還内府だということを知っていると言いたいのか」
「お前の知る神子殿がどうかは知らんが、あの女はお前の思うほど弱くない、ということだ」
悠長にはしていられないんだろう、知盛はそう言い放つと、だんまりを決め込んだようでちびちびと自酌を始めた。
諭されているのは自分の方か。将臣は、いっぱい喰わされたような気になって、ため息をついた。生きてさえいればまた会える。戦地に向かう友に、仲間に、何度も繰り返し言ってきた言葉だ。それを今必要としているのは紛れもなく自分だった。
明日こそは熊野本宮に行こう。将臣は中天に上りつかんとしている月を眺めた。明日もまた暑くなるだろう、望美が愚痴を言わなければいいが。夜が更けるまで、酒に伸ばす手は止められそうになかった。



2009/9/28