*銀後日談後の現代/泰衡を追う選択











季節は春、柔らかな日差しが降る穏やかな午後である。 眼前に在る並木道には絶えることなく薄桃の花弁が舞い落ち、 いかにも春めいた風景を醸し出していた。 地面にやわらかな初雪のように積もった花弁を踏んで歩くのは、 はばかられるような気がする。望美は、できるだけゆっくりと並木道を歩いた。 今日は休日だったし、望美を待つ人はいるが、特に急ぐ必要はなかった。
一歩足を踏み出すたびに、桜は目の前を横切る。睫毛の先に触れ、頬を撫で、優しく腕を滑って下に落ちる。上を見やれば、たわわに実った桜のみごとな群れが目を奪う。どこかで花見でもしているのか、賑やかな声が耳をくすぐった。ああ、あの日もこんな風だったな、と望美は思う。今、この手に逆鱗があれば、あの日に戻ろうとしていたかもしれない。手を目の前に伸ばすと、指先にいくつか花弁が触れた。その中の一枚を掴もうとして、望美は指先を突き出した。
「神子様」
ひどく急いた声がして、望美の腕は硬い手に掴まれた。桜の花弁は指先を離れ、小さく一回転して地面に落ちた。耳元で安心したようなため息が聞こえ、望美は、手の主が誰かを知った。
「銀」
望美は、彼の目が不安げな光を讃えているように見えた。望美の腕を掴む力は、普段の彼からは想像もつかないほど強く、その指は小刻みに震えている。何か言おうとしているのか、形の整った唇が僅かに歪められた。しかし言葉は発せられることなく、小さな吐息となって外に漏れた。
「銀、迎えに来てくれたんだ。ありがとう」
望美は彼に向き直り、彼がいつもしてくれるように優しく、その手に触れてみる。銀は驚いたように目を見開き、すぐさま手の力を弛めた。
「申し訳ありません。神子様は、桜を見ていらっしゃったのですか」
「うん、きれいだったから」
「…ここの桜は、平泉のものと似ていますね」
銀は僅かに目を細めた。たぶん、銀は望美が思っていたことを見抜いている。彼は自分を利もよほど、人の機微を読み取るのに長けている。どんなふうに振舞ったとしても、望美の考えていることがわからぬはずはないのだ。罪悪感か、驚きからか、望美は彼の手に重ねていた手を思わず引っ込めてしまいそうになった。しかし、自分の手はすぐさま銀の手に絡めとられた。
一瞬、あの日の夜に戻ったように思った。あの夜、桜は止まることなく降り注ぎ、泰衡の後姿を見送りながら、銀と望美は手を握っていた。なぜ泰衡の手を掴むことができなかったのか、と幾度繰り返しても変わらない運命を見たときと同様に、どうしようもない後悔が望美の胸を引っ掻き、焦燥が腹の奥底をじりじりと焼いた。
――私の望む未来が、違っていたら。
泰衡はそう言った。ならば、どういう未来を望めばよかったのだろう。自分の顔が、徐々に強張っていくのを感じた。皆が生き、銀と共に生きていく未来のほかに、何を?
銀の硬い指が、望美の手の甲を緩やかに絵取った。
「あの夜も」銀は僅かに目を伏せた。長い睫毛が彼の頬に瞳に陰りを落とす。「花びらの色が御髪と混ざって、私は神子様が桜となって消えてしまうように思いました」
泰衡様と共に、と銀はささやくような声で付け加える。
「銀」
望美は、銀の顔を覗きこんだ。淡い色の瞳が、僅かに揺れながらこちらを見返すのが分かった。
「私は、選んだよ」自分に言い聞かすように、望美は言った。「私は、銀、あなたを選んだんだよ」
銀の手が、望美の背に回される。そのまま彼に体を預けると、戸惑いを含みながら、しかし強かに抱きしめられた。馴染んだ彼の香りが広がる。
そうだ、自分は選んだのだ、と望美は思う。もしこの手に逆鱗があって、幾度あの夜を繰り返そうとおそらく望美は泰衡の手を掴めないし、銀と居る未来のほかを選ぶことも無いだろう。言葉を尽くしてそう自分が思ったことを伝えられたらよかったのだけれども、望美は彼ほど言葉が達者では無い。でも、おそらく銀なら、望美の言いたいことを理解してくれるだろう。そう思って、望美は口を開いた。
「今度、二人で桜を見に行こう」
抱き合ったままでは彼の表情は読み取れなかったが、望美は彼が確かにほほ笑んでいるように思った。



2009/9/25